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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 北国の使徒たち 4




今日は富山県に。魚津を回って富山市へと入ります。2泊しながら、キリシタンと浦上キリシタンの軌跡を追おうと思っています。知らない町をゆきますが、主の導きがありますように (^_-)-☆






日本海


右手に日本海を見ながら、ひたすら西へ。前を走る車も、横にそびえる巨大プラントも、直江津収容所から捕虜が強制労働に行っていた企業。今日は見え方が違うなー。。

他にも気づいたのは、北陸の街路樹はねむの木やアジサイが多いこと。ユニークな形のねむの花は、水筒の底までちゃんと洗えそうなタワシ型。

いろんな色のアジサイも素敵です♪


魚津市役所


待ち合わせまで時間があったので、魚津市役所に寄ってみました。もしかしたら、昔の新川県(にいかわけん。今の富山県)県庁だったんじゃないかなと思い。

明治5~6年、浦上キリシタンが呼び出され説得を受け、改宗を拒否すると牢屋に入れられ、3か月ほど過ごしました。それが新川県庁で行われたというんですが、この頃新川県庁は魚津にあったと聞きまして。

来てみても・・・分からないですねぇ。市役所の職員さんに聞くといいのかもしれないですが、そこまで時間ないし。釈然としないまま、写真だけ撮ってきました。どなたか分かったら教えてくださいっ<(_ _)>



魚津市役所

市役所前の公園

石碑

植樹

魚津漁業協同組合


待ち合わせの魚津埋没林博物館に向かっていると、こんな光景が。「魚津漁業協同組合」と書かれています。

昭和の懐かしさにデカダンスを加えたような佇まいが、何か語ってますね。強いて言うなら「俺みたいになるな」かな?

「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」などと口先ばかりの警句を弄しながら、漫然と暮らしていることを鋭く突かれたような気が。

痛いな、この風景。考え過ぎか・・・。変化できないまま、時の狭間に取り残されていくことがないようにと、心に刻みました。



魚津埋没林博物館


さて魚津埋没林博物館で女性4人と合流。今日は暑いので、化粧が崩れる前に集合写真を撮っておくことにしましょう。

私たちの旅程を祝福するかのように、2匹の蝶が現れて周りを飛んでくれています。水場には2羽の水鳥。良い感じです。

皆ニッコニコなんですけど、この先殉教地めぐりだってこと、分かってくれてるのかなー(^▽^;)?


富山のキリシタン


ここで富山のキリシタン史をざっくりみておくこととしましょう。越中の国、現在の富山県にキリスト教が伝えられたのは、佐々成政が越中を統治し始めた頃でした。成政の家臣、コバ・ベントという人物が、1574年にフロイスから洗礼を受け、家族や家来たちも信徒になったことが、フロイスの「日本史」に記されています。

この「コバ・ベント」が誰なのか、実名がわかっていないのですが、フロイスによると、加賀藩に仕えていた内藤徳庵という上級武士の甥で、父親と共に洗礼を受けたということです。この頃の伝道は、路上で宣べ伝えるというのではなく、親族や主従など、つながりのある人が、関係性と信頼を基に伝えていくというのが主でした。

1595年、越中は前田家の治める加賀藩に編入され、加賀藩には1588年から高山右近が客将としてやって来ていました。そのため越中のキリシタンは、加賀藩と共に栄枯盛衰を経ることに。だから迫害と殉教については、加賀藩の歴史をたどりながら触れていくようにしますね☆彡





花と蝶

水鳥

水中展示館


魚津「埋没林」博物館なので、やっぱり展示のメインは埋没林が。

こちらは水中に漬かったままの姿を見ることができる展示室。

かなり神秘的な雰囲気漂っていて、暗いから若干怖いかな。

これらの木々は2000年前のもの。イエス様の時代の木を目の当たりにするなんて、なんだか不思議です。ゆったりと水中に根を広げる樹木たちの無言劇。身を乗り出して観察することもできるのですが、畏怖の念が湧いてきて自然と距離を取ってしまいます。スマホとか落としたら大変そうだし。。


加賀藩のキリシタン


では加賀藩のキリシタン史を見ていくことにしましょう。石川県、昔の加賀国や能登国にキリスト教がもたらされたのは、高山右近が来たからです。高山右近は文武両道に優れたキリシタン大名で、高槻や明石を治めていたのですが、1587年に秀吉が出した伴天連追放令のせいで、追放の身となりました。

高山右近の才を買っていた前田利家は、秀吉の態度が軟化してきたのを見計らって、秀吉に右近のことを、「武勇のほか茶湯、連歌、俳諧にも達せし人である」と言い、自家に招きたいとの意向を伝え、これを許されました。加賀に来た右近は教会を建て、キリスト教文化を周りに伝えていったので、武士階級から多くの受洗者が出ました。

名実共にキリシタンの中心であった高山右近が、徳川幕府の出した禁教令のあおりを受けて、金沢を去らなければならなくなったのは1614年。そこからキリシタンの苦難が始まりました。1630年、高山右近の弟子で上級武士の孫左衛門が、江戸の神田川の畔で処刑され、越中国にいたその家族7人も魚津の田畑川の畔で処刑されました。

これと同じ頃、金沢でも孫左衛門と懇意にしていた沢市という座頭の夫婦ら10数人のキリシタンが捕らえられ、沢市夫婦は金沢の泉野で磔刑に処されました。孫左衛門一家の殉教地は、富山県魚津市にある魚津埋没林博物館の敷地付近、沢市夫婦の殉教地は、石川県金沢市の泉野桜木神社の辺りです。



埋没林

ゆるキャラ

根っこ

水中に

中庭の塚


という訳で、本日こちらの博物館に来ることになったのです。

カトリック名古屋教区が出した「あかしする信仰」には、教区内のキリシタン史跡地が載っているのですが、そこにはこう書かれています(↓)。


富山県唯一のキリシタン殉教史跡


「博物館の屋上からかつての海岸線を望んでみると、江戸時代鰤漁の舟から湊の方角を知るために松の木と塚を目印としたとされ、往古は『博物館より魚津港海岸を望む殿の塚』が並んでいた。博物館中庭にある塚跡か田畑川があったその場所である博物館敷地の海寄りの、工事以前の地盤と思われる位置に松林があり、その中の二本の松の根本に石を円環状に並べた塚跡らしきものがある」

つまりそれが鈴木孫左衛門一族の塚跡ではないかということです。見つかるかなーと思っていたのですが、夫が「あれじゃない?」と。その方向を見ると、おお、それらしきものがありますね!松林の木陰に入って見えにくいのですが、確かに石が少し寄せてあります。塚というより、数個の石組ですが。

孫左衛門の一家は、ここで殉教するか、埋葬されるかしたのでしょうか。資料がないので詳しく分からないのが残念ですが、こちらが富山県唯一のキリシタン殉教史跡地になります。明治になって浦上キリシタンが流配されて来てからの殉教地はまた他にあるんですけども。キリシタン時代のものはここだけですから。



中庭


石組

乾燥展示館


中庭を通って、埋没林の乾燥展示室にも。丁寧な解説付きで、子供の自然科学教育に良さそうです(もちろん大人にも)。

イエス様の時代の木々が保存された所に、キリシタンの殉教史跡もあるって、縁としてはつながっていますね。

ここに埋没林があったからこそ、キリシタンの塚も中庭に保存されている訳ですし。そういう意味では、主の翼に守られていると言うこともできるのかもしれません。ロマンティックな言い方になってしまうのが、殉教という事実を考えると、いいのかどうか分からないけれど。



敷地

乾燥展示室

解説板


 カトリック教会に寄ってみたら♪


カトリック魚津教会


博物館を後にして、カトリック魚津教会へ。どこかお祈りに寄れる所があればと思い。

行ってみると、折しも初金のお祈り会をしているところで、お邪魔かなと思っていたら、声をかけてもらい、中へ。

ちょうどお祈り会が終わるタイミングだったようです。


聖堂内


正面には大胆に描かれた十字架と、真ん中にキリスト磔刑像。

幾重にも重なる門を通って天の世界に入って行くような壁のデザインといい、色使いといい、かなり斬新な印象です。


手作りの聖像


後方にある聖像は、神父様の手作りなのだとか。え、器用過ぎません!?

もうすぐどこかに移られるという、カテキスタの方にお話をしてもらい、信仰の息吹を感じました。

「若い人が教会に来るなんていいねー」と(正直私は若くないんですが^^;)、歓迎してくださいました。感謝♪



聖堂内

祭壇

聖堂内

幼稚園は間もなく閉園

魚津城跡


それでは次は魚津城跡へ。現在は大町小学校となっています。

ここに来てみたのは、新川県庁だった可能性ないかな?と思ったのが一つ。それから高山右近が来てたかもな、というのがもう一つです。

富山城で隠居していた前田利長が火災で城を失い、避難したのが魚津城で、利長は第二の拠点を設けるため、右近に高岡城の縄張りを依頼しました。だから右近はこの城に来たのではないかと思ったのです。解説板はいくつもあるけど、それらのことは書かれていないですね。こっちの目論見がマイナー過ぎるのかもしれませんが。



大町小学校

周辺地図

解説板

解説板

来年閉校


来てみて知ったのですが、こちらの大町小学校、来年で閉校してしまうそう。子供が減っているんですねぇ。困ったことです。

学校は何になるんだろう?公民館とか老人保健施設とか・・・。分からないけど、若い世代がたくさん子供生みたくなるようなものをお願いしたいですね☆



 では富山市へ!


唯見寺


では富山市へ。富山市と言えば、浦上キリシタンです!(私に言わせれば...(~_~;)

浦上(うらかみ)キリシタンとは、明治政府によって各地に流配されたキリスト教徒のこと。江戸から明治6年まではキリスト教が禁止されていたので、キリスト教徒だというだけで、流配(見知らぬ土地に送られ牢屋生活する)され、そこで棄教を勧める説諭を受けたのです。

しばしばその説諭は拷問を伴うものになりました。牢屋も劣悪な環境だったので、病気が流行って死んでしまうことも。カトリックでは浦上キリシタンの流配事件を最後の迫害、それで命を落とした人を最後の殉教者と呼んだりします。

ここ唯見寺も浦上キリシタンが入れられた収容所の一つ。市之助という青年が一人で預けられました。



田んぼにサギの群れ


富山藩に流配された浦上キリシタンは42名。最初、合田と経力という2か所の温泉場に入れた後、29カ寺に分けて収容しました。

29か所もの寺を全部回れないので、象徴的な所のみ回ろうかと。

富山に来た浦上キリシタンは、長崎に帰還までに6名が死亡。だからこれらの場所も殉教地となる訳で。長閑な田園地帯なんですけども。。



法蔵寺


こちらは大塚の法蔵寺。12歳のマサが一人で預けられていました。

家族をバラバラに収容するというのも非人間的なやり方で、後ではこれが諸外国から非難を受けることに。

大体、富山に送られた信徒たちは、首に鉄の首輪付けられてましたからね。非人間的も非人間的、人ではなく獣のように扱われていたのです。ここにいた女の子には首輪が付けられていなかったのが、せめてもの救いです。

首輪を付けられたのは15歳以上の信徒だったから。改心(棄教)すれば、役人が鍛冶屋を連れて来て首輪を切断させるのです。富山藩の信徒取り扱いが酷いと内外の批判を浴びた理由の一つは、この首輪にありました。



8番ラーメン


お昼は8番ラーメンにて。この名前を聞くと、北陸人のテンションが変わるのを発見しました。ソウルフードなんですね。名古屋で言うなら寿がきや(スガキヤ)か。

数種のカスタマイズを可能としたメニューを把握して、よどみなく注文できるようになりたいです☆彡


妙萬寺


次は高木の妙萬寺。ここでユキという女性が死亡しています。だから殉教地ですね。処刑したのではないけれど、信仰のゆえに流配され、収容先で亡くなったのだから。

ユキさんの夫は金沢に収容されていました。家族を引き裂いて、他の藩に行かせるなんて。

ユキさんが死んでも、夫は会いに来ることも、弔うこともできなかったでしょう。死亡の事実すら、随分と経ってから知らされたのではないかと。人権なんていうものが、浦上キリシタンには一切なかったのです。世は明治となり、開国もしていたというのに。



長岡御廟


そのユキさんの、埋葬地を探して長岡御廟へ。長岡御廟は初代藩主前田利次らの墓所で、その周りが霊園になっているので全部で1.2ヘクタールもあります。

ユキさんは、御廟草付(長岡の富山藩主の廟所の北側草の生えている場所の意味)に葬られたということなので、とりあえず長岡御廟に来てみました。


真国寺

墓所

富山藩主の廟

解説板

北側


「北側ってこっちかなぁ」と、特に草がある辺りを探してみましたが、それらしいものはありませんでした。

無縁仏の墓塔とかに骨だけ埋葬されたか、明治の初めの頃のことだから、まだ空いている草地の辺りに埋めたのか。分かりませんね。

長岡廟所にある歴代藩主らの墓碑などを見ると、同じ人間として生まれて、こんな差を設けることに疑問はなかったのかなと、素朴に思います。

それでもユキさんの跡を探してここまで来ましたよ。お子さんのこと、気がかりだったでしょうね。ちゃんと長崎帰って行きましたから安心してください――。心の中でメッセージだけ送りました。



長岡廟所

霊園

霊園

草地


 富山城跡へ☆彡


お堀


富山市でも郊外ばかり回っていましたが、やっと中心部にやって来ました。富山城址です。

今は日本庭園や芝生広場、櫓などのある公園になっています。藩政時代は現在の城址公園の約6倍の広さがあったというので、めちゃめちゃ広かったんですね。


日本庭園

茶室

茶室について

庭園

富山城址公園


明治18年の富山市街図を見ると、富山県庁のすぐ後ろを神通川が流れていて、その横に「監獄所」の文字が見えます。

神通川って、今と全然違う所に流れていたんですね。その頃の神通川の流れの一部が松川として残されているんだと知りました。

禁が緩んだ後、キリシタンのリーダーの一人、市之助が小使いに雇われたという裁判所は地図では濠のそばに書かれています。位置関係を確かめると実感が湧いてきますね。ここにいたんだなと☆



戦災復興記念像


すると、明治5~6年初めに富山にいた浦上キリシタン全員が集められた「富山藩の邸内の射的場の長屋」は、現在こちらの像が建てられている辺りに相当しようかと。

戦災復興記念像ですね。富山市内も大戦末期大規模な空襲を受けたようです。キリシタンに興味を持つまで、こういう像や碑を見ても深く考えていませんでした。

年を取らないと深く感じられない物事もありますね。そう思えば、年を取ることもまた意味があることだと言えそうです。少し考えの次元を上げれば、感謝もできることでしょう。うん、そうしよう。。(o^^o)



戦災復興記念像

解説板

復元された櫓

復元された櫓

滝廉太郎像


濠の外を歩くと、沿道に「滝廉太郎修学の地」の像が。独楽を手にする廉太郎はかわいいのですが、雨が直接当たるためか、目の下に涙の筋みたいなのができて、泣いているように見えるのがちょっと・・・。

滝廉太郎が小学校1年生の途中から3年生の途中まで通っていた富山県尋常師範学校附属小学校が、この付近(今の税務署の所)にあったからですね。

台座に作曲した歌の歌詞が刻まれています。滝廉太郎はわずか23歳10ヶ月という短い人生でしたが、名曲「荒城の月」は、少しアレンジされてベルギーで賛美歌として歌われています。廉太郎はクリスチャンだったので、賛美歌を残せたことを天で喜んでいるかも。廉太郎の涙を拭ってくれているのは、人ではなく神さまの御手なのでしょう。



滝廉太郎修学の地

滝廉太郎修学の地

滝廉太郎

解説板

日本基督教団 富山二番町教会


交差点を曲がる時、左手に富山二番町教会が見えました。「二番町」というけれど、今は一番町にあるみたいですね。

1891年メソジストで最初の講義所が建てられたことに始まる教会で、現在は日本基督教団に属しています。


日本基督教団 富山鹿島町教会


少しだけ中心地を離れましたが、重厚な教会堂が住宅街にありました。富山鹿島町教会です。

富山市で最も古いプロテスタント教会ですね。1881(明治14)年、米国長老教会宣教師トマス・C・ウインによって伝道が開始され建てられるようになりました。


カトリック富山教会


ラストに取っておいたのはカトリック富山教会。ここに来られなかったら、富山に来直さないといけないくらいの重要スポット。

ここ、浦上キリシタンの収容所となった鈴木屋敷の地所を買い取って、その上に建てられた聖堂です。

聖堂前の石碑にもちゃんとそのことが書かれていますね。隣にキリスト像が両手を開いて迎えてくれています。ああ、来て良かった♪



聖堂前

解説碑

キリスト像

聖像

聖堂内


車をどこに停めるか逡巡していたら、シスターが「こちらへどうぞ」と、幼稚園の扉を開けて敷地内に駐車させてくれました。

なんと。ご配慮感謝します。シスターにも神さまにも。

ステンドグラス越しに差し込むふんわりとした光。心に染みてくるような優しさと神々しさ。人の世で生きていることを忘れそうです。その感覚を味わいたくて、ここに通う人が多くいるのでしょう。過去から現在、これからも。



聖堂内

祭壇

ステンドグラス

聖像

愛護幼稚園


小道を挟んだ所にある愛護幼稚園。車を停めさせてもらったお陰で入れましたが、ここに信徒がいたはずです。

浦上キリシタンゆかりの井戸は、この幼稚園の建物の下にあるということです。

ここで信徒たちは祈っていた訳ですが、そうまでしたのは、主への愛ゆえだったんだろうなと感じました。

世の中の人の愛は、愛しても永遠に生きるようにさせてくれる愛ではありません。肉体の命だけでなく、霊の命まで生かしてくれる愛だったから、喜びも希望も絶えなかったのだろうと。力を受ける対象をちゃんと見つめていたからこそ、忍耐できたのだと思いました。信仰の世界には、名前も知らないけれど、立派な先輩たちがたくさんいるんだなと感じます☆彡



愛護幼稚園

愛護幼稚園

富山一麦教会


帰りがけに、もう一つ教会を見つけました。富山一麦教会です。富山にこんなに教会があることも、来てみなければ知らなかったと思うので、来て実際に見るようにさせてもらうって大きなことですね。

今日も朝からフルスロットルで魚津と富山市を駆け抜けて、キリシタン殉教地やら浦上キリシタン流配地を目まぐるしく回ったので、付き合ってくれた皆さんはお疲れかと。気持ちが付いて来ないですよね、きっと。うかつに巡礼などに同行すると大変な目に遭うとか思われていないといいんですが・・・(;^_^A

そうは言っても、明日も手加減なしかもしれないので、どうかゆっくり休んでください!





感謝の論理とその応用


旅をしていると、助けられることばっかりです。人の情けによらなければ、行くべき所にも行けず、行ったとしても十分な知識を得られず、そのため力もあまりもらえないのです。だからそこに行ったという事実よりも、そこでどんな出会いがあり、どう助けられたかが思い出になることも。

そんな時、もちろん助けてくれた人にも感謝しなければいけませんが、その人に感動を与えてくださった神さまが後ろにいらっしゃることを忘れてはいけないですね。人を通して助けてくださったのだと思うと、感謝も二倍です。人に感謝、天に感謝♪

だけれど、こんなこともあるのではないでしょうか。例えば誰かが私に害を与えたとします。私はそれで腹を立てる。でも・・・、感謝の論理からすれば、私はその人に腹を立てるよりも、自分が神さまとの関係において食い違っていることがないのかを、まず考えてみなければならないということです。

感謝しつつ、その応用として、人とのことから神さまとの関係を振り返るようにしていきたいと思います (*´▽`*)





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