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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 北国の使徒たち 6


イエズス会の年次報告書は、加賀・能登・越中を「北国(ホッコク)」と表し、当地における宣教が高山右近の来訪と共に始まったことを伝えています。

今日はその加賀(石川県)へ。北国のキリシタン中心地だった所ですね。昔からの友人にも会えるから楽しみです (^▽^)



金沢の長町


友人とは金沢市内の長町で待ち合わせ。武家屋敷が立ち並ぶ風情ある町で、前来た時にも散策したのですが、その時は友人は他の所に暮らしていたので、誰とも会えず、自分たちで回っただけでした。

こんな町に暮らすって、どんな感じなんだろうと思っていたら・・・、あ!久し振り~(*´▽`*)ノ


武家屋敷

解説板

周辺地図

日本基督教団 金沢長町教会


友人の息子が通うという、金沢長町教会の幼稚園を眺めながら、有名観光地なのに意外と生活しやすいのかなと思いました。

雪はどかんどかん降りそうですけどね。いい季節に来ているから、気楽にいいなと思っていられるのかもしれません。


朝から和カフェ


金沢の風習なのか分かりませんが、朝早くからやっているカフェが多くてカルチャーショック。でもそのお陰で和カフェ「たろう」で、積る話をこれでもかというくらいできました。カフェが居間のような役割を果たしているのかも。

気になったのは、窓の外の織部灯籠。こんな所に・・・。これをキリシタンが拝んでいたものだとして、「キリシタン灯籠」と呼ぶ人もいますが、私は懐疑的です。金沢はキリシタンの町ですけれども (^-^;


織部灯籠

織部灯籠

黒門前緑地


友人の友人たちと合流して、午後はキリシタン史跡めぐりをば♪

まずは黒門前緑地へ。前田利家の娘でキリシタンだった豪姫の屋敷跡です。金沢城の黒門のすぐ前にありますね。

さすがお姫様!


黒門前緑地

黒門前緑地

豪姫の屋敷跡

敷地内

高峰譲吉家


豪姫の屋敷跡の解説板があり、それだけでもポイント高いですが、敷地内にある建物は豪姫時代のものではありません。

この和洋折衷の趣ある家屋は、医学博士の高峰譲吉の家を移築したものです。高峰譲吉はクリスチャンでもないし、キリシタンと直接関係がある訳ではありませんが、ほんの少し間接的な関りがあります。

キリスト教禁令の黙許につながる英字新聞への投稿があったのですが、それを行ったのがオズボーンというお抱え外国人教師で、高峰譲吉は七尾の軍艦所に設けられた語学所でこの人から英語を学んでいたのです。オズボーンという人も興味深いですが、七尾というのも注目ポイントですね。理由はおいおい。



高峰譲吉家

高峰譲吉家

和室

洋室

むむ、あれは!


何気なく庭を見ていたら、隅っこの方に織部灯籠が!

私たちが写真を撮っていると、管理人さんが「豪姫がキリシタンだったから拝んでいた『キリシタン灯籠』だよ」と・・・。

ここで議論しても始まらないので話を聞いておりましたが、「これは違うんだ」ということをいずれちゃんとキリスト教界全体のコンセンサスの下、明らかにして正した方がいいという思いを強くしました。

これがキリシタン灯籠ではないことは、もう30年ほど前に証明され議論が終わったものと、私は考えているんですけど、地方自治体で「キリシタン灯籠」として文化財指定されてしまっている物もあり、その解除が難しいという問題点があります。「織部灯籠」もしくは「織部型の灯籠」とすればいいだけだと思うんですけども。。



織部灯籠

織部灯籠


 金沢城に右近を見る


黒門口


では黒門口から金沢城へ。昔はここが大手でした。1599(慶長4)年、家康から謀反の疑いをかけられた時、前田利長は右近に金沢城の修築を命じ、大手もここから尾坂門の方に移したのです。

1614(慶長19)年1月、徳川幕府の禁教令により国外追放されることとなった右近一行は、この黒門前から出立しました。

この地で暮らした26年を振り返る余裕もないほどの慌ただしさだったことでしょう。秀吉の伴天連追放令の時から、右近は既に殉教を覚悟していたに違いありませんが、北陸の寒いその日に発つとは思っていなかったかもしれません。いつも突然に、闇に覆われる日が来るものですね。脳裏にはゴルゴダに向かう主の姿が映っていたのではないでしょうか。

右近に同行したのは、ジュリア夫人と娘のルチア、長男ジョアンの子供5人(ジョアン夫妻は金沢で死去)と内藤如庵、浮田休閑の家族でした。5人の孫は8~16歳。言葉も通じない国へ追放されていくことを、どの程度理解できたのか。金沢を発っておよそ一年後、一行はマニラに到着し、着いてから40日後に右近は亡くなりました。1615年2月5日(慶長20年正月8日)、享年63でした。



黒門口

黒門口

城内


城内に入ると広い新丸広場が。新丸は金沢城修築の際、右近が新たに造成したエリアです。テンション上がりますね♪

おっと!先走って国外追放とマニラでの客死について書いてしまいましたが、右近が金沢に来てからのことをお話しなければなりませんでしたね☆

金沢に右近が来るまで


高山右近が金沢に来たのは前田利家が招いたからです。ご存知かと思いますが、右近は文武両道に優れたキリシタン大名で、高槻や明石を治めていたのですが、1587年に秀吉が出した伴天連追放令のせいで、追放の身となりました。

右近の才を買っていた前田利家は、秀吉の態度が軟化してきたのを見計らって、秀吉に右近のことを、「武勇のほか茶湯、連歌、俳諧にも達せし人である」と言い、自家に招きたいとの意向を伝え、これを許されました。

一方前田利家からの招きを受けた右近は、「禄は軽くとも苦しからず、耶蘇宗の一カ寺建立下されば参るべし」との条件を出し、利家がそれを承諾したので、1588(天正16)年の晩夏頃、家族と共に金沢へ来て暮すようになったのです。右近の屋敷があったのは、現在金沢21世紀美術館のある所。城からも近く、厚遇されていたことが分かります。


前田利家の死去後


1599(慶長4)年、右近を招いた前田利家が死去しました。死に臨み、利家は嫡男である利長に対して、右近を大切にするようにと遺訓を与えました。ところがそこに災難が降りかかります。徳川家康が利長謀反の嫌疑をかけてきたのです。右近と横山長知が家康の元へ弁明に出掛けましたが功を奏さず、結局利家の妻 芳春院が江戸へ人質として出し、弟の利常に徳川秀忠の娘 珠姫を娶らせることで決着しました。

その後、右近は利長の命を受け金沢城の修築に取り掛かります。対徳川戦を想定して、城を城下を大改造する必要があったからです。それまでこの辺りは三の丸の外側にあたり、寺や町人屋敷があったのですが、右近はそれらを外側に移して新丸を造成し、その外側に大手堀を造りました。その際大手を移したことは前述の通り。

1600(慶長5)年には関ヶ原の戦いに参戦しているので大忙しです。それらをやり遂げると、1605(慶長10)年、利長は弟の利常に家督を譲って富山城に引退しました。この利常が私の愛する鼻毛王子(鼻毛ボーボー伝説についてはコチラの少し下を参照ください)です。利常のことも右近はサポートしていたので、奇行の陰には天からの知恵があったと、勝手に想像しているのですが ( ̄▽ ̄)ドウダロ?




前方に見える櫓は最近復元されたものですが、京都にあった南蛮寺とよく似ているのではないかと指摘されています。

三階建ての入母屋造、隅柱が黒く縁どられていることなどが共通点ですが、この両方に関わったのが高山右近です。南蛮寺は今はないけれど、金沢城で「こんなんだったのかなー」と想像の翼を広げてみることができるかもしれませんね(というか、今私がしている)。



新丸広場

Y字の松

石垣

なまこ壁

石垣


いろんな年代の石垣と刻印を見てるだけでも、どこの石だろう?どんな石積み職人が積んだんだろう?とワクワクしてきて、ご飯三杯くらい食べられそうです。

だけどここは心を鬼にして前に進みましょうね。まだ行きたい所があるので♪

思えば右近は26年も金沢にいたのに、当地に残る右近ゆかりの物はほとんどありません。しかし考えようによっては、この金沢城に、また城下をぐるりと囲む総構えに、右近の姿を見出すことができるのではないでしょうか。今も市民が雪捨て場にしている内総構えの堀も、右近が短期間で掘削したものです。

地図で見ると、金沢は大きなドーナツのような環濠都市。400年前に右近がグランドデザインを描き、工事を完遂したドーナツ・シティに、今も人が住み、楽しく暮らしているって、なんて素敵なことなんでしょう。残された物が少ないと言いましたが、それはその後の禁教政策のせい。しかしこの町に右近の足跡を感じられるなら、これほど巨大な遺産はないと言っても過言ではないのです (*^-^*)!

ああダメ、右近愛が止まらないっ。



石垣

石垣

城門

石垣

紺屋坂


正門を出て左の下り坂へ。ここが紺屋坂で、下り切った兼六園下交差点が昔の南蛮寺跡です。

右近が最初に建てた教会は現在の大谷廟所の辺りにあったと私は考えていて、ここには豪姫が帰って来てから利長が建てた、金沢で二つ目の教会があったと思っています。

だから恐らく建てられたのは、豪姫が戻った1607(慶長12)年頃。同じ頃に浮田休閑も来沢しています。この時期、利長はしばしばはっきりとキリシタンになりたいと語っていました。実行できないまま亡くなりましたが。

しかし妹のためにとはいえ、教会建てるって、それなりに信仰がなくてはできないと思うんですよね。形式的にはキリシタンになれなかったとしても、天国みたいないい所に行っててくれたらいいなと。



南蛮寺跡


こちらが南蛮寺跡の交差点。元禄から宝暦年間に作成されたとみられる金沢城図に、紺屋坂下と公事場の間に「切支丹寺跡明地」の文字が記されています。

公事場の所に今、裁判所があるからより分かりやすいですね。


慶長のクリスマス


ここで祝われたのではないかと思うのが、慶長のクリスマス! 1608(慶長13)年のクリスマス、右近は自前でご馳走を用意し、自筆の招待状を送って人々を招き、クリスマスを盛大に祝いました。どんなプログラムだったのか、詳細はわかりませんが、右近もキリシタンたちも大変感動し、恵み深い一夜となったのだとか。ちなみにこの年、新しく洗礼を受けた者は140名。現代のメガチャーチでもここまでは及びません。

このような教勢の拡大について、1615年のイエズス会日本年報には、「金沢教会は日本で最も繁栄した貴族集団である」と書かれています。右近や前田家の家臣たち、またその家族が主な入信者であったため、信徒の内訳としては、農民よりは武士階級の人たちが多かったから、「貴族」と書かれたのでしょう。

また北陸は元々一向宗などの仏教勢力が非常に強かったので、右近が来て20年ほどでは、その地盤を崩すまでには至らず、一般民衆にまで影響が及んでいかなかったものと考えられます。ご馳走には、金沢の郷土料理 治部煮や右近が好きな柿が並んでいたんではないかと、400年後の交差点でほくそ笑んだりして...(^^♪ウフ



紺屋坂

兼六園下交差点

裁判所

前田利家像


旅行客がたむろする前田利家像の辺りは昔堀だった所。金色の鯰尾の兜(厳密には銀鯰尾兜)が眩しいです。

独特な意匠に凝り競った戦国武将の兜の中でも特に奇抜だったもので、長さは約120センチもあります。馬に乗ったらどんなだったでしょう。

鯰尾の兜は、蒲生氏郷もかぶっています。大地を揺るがす動物として鯰の力にあやかりたいと思ったのか・・・?氏郷はキリシタン大名だから、鯰にあやかりたいとは思わなかったと思いますが。。

だけど利ちゃん(利家)はよくやったと思います。右近をスカウトしてきて。息子のよき相談相手になると考えたのかもしれませんね。嫡男の利長より右近は10歳年上だったから。それも後々のことを見通してのことですよね。銅像建てられる人は、やっぱりそれくらいのことをしたんだなー。

そういえば利長(こっちも利ちゃん)と氏郷は相婿ですね。利長の妻・永姫(玉泉院)と氏郷の妻・冬姫はともに信長の娘ですから。年は氏郷が6歳上ですが、割と近くて。利長のキリシタン贔屓は親譲りなだけでなく、右近と氏郷2人への信頼もあったのかも。そんな兄貴2人がいたら、そりゃ良いですもん。

利長も鯰尾兜をかぶっていましたが、鯰よりもあやかりたかったのは、兄貴たちの人間性、ひいては信仰だったのかもしれないですね。もう誰にも聞いてみることはできないけれど☆彡



日本基督教団 金沢教会


利家像の近くで友人の夫と待ち合わせして、そこから息子の子守をバトンタッチ。これがとんだ食わせもので、子供慣れしてない私にはかなりの高難度。

体操ならH難度のシライ3。私に後方伸身2回宙返り3回ひねりは無理だ;;

日本基督教団の金沢教会は見ましたが、ここは前来たし、次どこに行けるのか、息子がグズらずに行ってくれるものなのか、途方に暮れつつあり。ちょっとアタマ混乱してますかね。。



大蓮寺


すごいな、子育てって。毎日が戦(いくさ)なんだ。世の中の全てのお母さんたちに賛辞を送りたい。あ、何か全身の力を抜かれていくような気がする。。

強力なスポンジみたいに愛情を吸い込んでいく幼子にすっかりペースを乱されながら、豪姫ゆかりの大蓮寺へ。

大蓮寺は豪姫の菩提寺で、墓所には宇喜多秀家(豪姫の夫)の八丈島墳墓と豪姫の野田山墳墓をそれぞれ模した記念碑がある・・・らしいですが、見つけられませんでした。というか、目の中に何も入ってこないし、アタマの中にも情報が浮かびません。人が話していることも理解が浅くなっているみたいだし、これたぶん軽いパニックですよね。軽いと言えるか要検討レベルの (*_*;



解説板

境内

墓所

石造物

金沢大学病院


自分がこんなにかき乱されるタイプだと知らなかったので、目的地を車のナビに入れるのもうまくできず、なぜか金沢大学病院に・・・。

あと数か所回ろうと思っていた所があったのですが、結局全てを放棄して、4歳児と全力で戯れています。。基本子供はかわいいと思うし、遊ぶのも好きなつもりでいたけれど、それに応じた体力が不足しているのか、もうアタマの中が真っ白です。

なんだろうなぁ。全てのお母さんたちを尊敬します。素晴らしい偉業を日々成しているんだと。こうやって人が命を育てリレーしていくから、歴史が続いてきたんですね。そっか、これも歴史の一コマか!



すし喰いねぇ!


友人の旦那さんと再び合流して、この辺りで一番美味しいというお店でごちそうになりました。

「金沢はお寿司が美味しいから、他で食べられなくなりますよ!」と力説する友人の言葉を聞きながら、移住が成功して良かったなとしみじみ。息子は玉子巻で遊んでますが、ま、それはそれとして (;^ω^)


4歳ですから


三つ子の魂百までといいますが、最近聞いた話によると、5歳までは短期記憶しかないので、叱られても忘れるし無駄なんだとか(真偽不明)。

確かに今日半日くらい遊んであげたとしても、次会う時には忘れられていそう。だけど記憶はそうだとしても、受けた愛はどうなんだろう?具体的なことは覚えてなくても、誰かに愛されたことはどこかに残ったりしないのかな。


右近が残していったもの


名実共にキリシタンの中心であった高山右近が、金沢を去らなければならなくなったのは1614年。利常の嫡男で、後に藩主となる光高は2歳でした。右近は行く時、利常に加賀藩のキリシタンのことを頼んだろうし、代わりに前田家の繫栄を祈っていったことでしょう。ギリギリですが、光高にも接したことはあっただろうし。

右近の死後の1616年、加賀・能登・越中にキリシタン禁制の高札が出されはしましたが、1623年までは領内でキリシタン摘発が行われた形跡はありません。前田家は、右近が去った後も、表立ってはできないとしても、キリシタンに一定の配慮をしてくれていたと考えられます。

1623年、第3代将軍に家光が就任し、幕府が盤石のものとなり、1637年の天草・島原一揆以降は、全国的にそれまでとは比べ物にならないほどの弾圧が行われたので、加賀藩もそれに倣うしかありませんでしたが。それでも多くのキリシタンがいた加賀藩で、たったの1件しか殉教事件がなかったのは驚きに値します。

恐らくは、右近の残した祈りもさることながら、前田家に残した愛の面影もどこかに影響したのではないでしょうか。右近が愛で接したことや、思いやりある言葉、そこに込められた真実さを、利家・利長・利常が心で受け取っていたからこそ、迫害を最小限に止められたこともあったかと思います。

それは単にキリシタン贔屓というのではない、別次元の話です。記録にも、幼ければ記憶にも残らない愛という要素が、歴史の中で何かを左右したとしたら――。キリシタン史にあるもう一つの側面を垣間見た気がしました。





列福とか列聖とか


2017年2月、高山右近が列福されたのをニュースで見た人も多いかと思います。この列聖・列福制度という制度が、「キリシタン⇒殉教」というイメージを浮かばせることに深く関わっています。キリシタン時代、多くの殉教者が日本でも生まれたのですが、宣教師たちは殉教者の名前や年齢、出身地、殉教地、その状況などを詳細に書き残し、列聖・列福の資料としました。

それは当時と後の世の人々に対する証のために必要だと考えたからです。「ただ死んでしまって、何も残らない」ということが耐えがたかったのかもしれません。その資料が「殉教録」に記録され、更に聖人になった場合には「聖人伝」となり、崇敬すべき人物として全世界で語り継がれていきました。それがカトリックの浸透力を支える柱となったのです。

つまり「キリシタン⇒殉教」という図式には、キリスト教界の持つ構造、宣教や信仰管理というものが大きく関係しているということです。高山右近も「証聖者」ではなく、「殉教者」として列福されました。

キリシタン史を勉強していて「殉教の人」と紹介されるようになったというのは、意外と根の深いことだったんですね。励みに思って、私のキリシタン史をもっと深めていけたらいいな (*‘ω‘ *)ノ





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