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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ソウル松山キリシタンの旅 1


今秋、LCCが就航するようになったソウル松山。この便を使えば、ソウルに行ってから、松山に寄って帰って来るということができちゃいます。ソウルも松山ももう少し回っておきたい所があったので、これは好都合☆

ということで、今回はソウル松山の旅です。テーマはやはりキリシタン。どちらもキリシタンゆかりの地であり、クリスチャンの殉教地ですので、どちらも行きたかったのですが、それを2回でなく1回で回れるなんてっ! キリシタン好きのために就航した便だと信じて(?)・・・行って来ます(o^^o)ノ



仁川国際空港


一人下り立った仁川国際空港。こんなマニアックな旅に付き合ってくれる友達もおらず(随分誘ってみたけど)、夫は用事があって無理だということで、今回はほぼ一人旅です。

とは言え、現地在住の知人には「行きますよー」と声はかけており、多少は時間を作ってくれそうなので、一人ぼっちではない(だろう)と思われます。

日本もそうですが、韓国も移り変わりの早い街ですね。空港でも、駅でもそう感じました。



新村の宿


ソウルの宿泊は新村駅の近くに取りました。個室にシャワートイレが付いているゲストハウスで、共同のキッチンも♪

今日は移動日で特に行こうと思っていた場所もないので、材料買って来てマンドゥトック作りました。

ずっと留学というものに憧れていましたが、機会がないまま今まできて、これから海外生活ってことも起こりそうにありません。

だけど海外でこんな生活感のある一日を送れることもあるので、有難いことですね。自分の願っていたことが、自分が想定しているのと違う形で叶っているということも、きっとたくさんあるんだろうな。



オール電化キッチン

マンドゥトック

2日目の朝


オンドルが暑くてあまり眠れないまま朝を迎え、とりあえず外へ。12月ともなると、日本同様ソウルの街角もクリスマス一色。

それでも若干品よく見えるのは、クリスチャン人口の多い国だからか? 商魂むき出しのクリスマスでないことは見習いたいところです。


聖公会大聖堂


地下鉄に乗って、市庁駅にある大韓聖公会の大聖堂へ。

聖公会らしい聖堂ですね。オールドで、イングリッシュな。

日本人にも親和性が高いように感じます。

敷地内にある建物は完全な韓屋(ハノク。韓国の伝統的住居)で、庭先に植えられた木まで鄙びた風情を醸し出しています。古き良き伝統を、イギリス式にも韓国式にも採用しているのかと。



ショップ

解説板

韓屋

大聖堂

小聖堂


大聖堂が開くのは11時からということで(遅っ!)、小聖堂でお祈りしてきました。

ちょろっとですが韓国語を使う機会があり、少しでもしゃべれると便利だなと、勉強した甲斐を感じております (^^ゞ

うす暗い中でお祈りしている男性がいました。後で女性も一人来て。出勤前にお祈りして行くんでしょうか。偉いなぁ。



徳寿宮


トコトコ歩いて徳寿宮。市庁周辺は見所が目白押しで、徒歩で回る方が時間短縮になります。

徳寿宮は昔の王宮なのだけど、隣でドーナツ店が盛業中なのが実にシュール。王宮の周りなんて、昔は庶民など近寄ることも出来なかったでしょうに。時が経てば権威も変わるということですね。

さてこちらに赴いたのは、徳寿宮が文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際に、日本軍の陣所の一つとなっていたから。この戦い(侵略戦争)で漢城(ソウル)陥落の際に、ソウルに本陣を構えていたのは宇喜多秀家で、その家臣、花房志摩介(花房志摩守)は徳寿宮を接収して、陣所として使っていました。

花房志摩守はキリシタンではないですが、後に起こった宇喜多騒動でキリシタン側と対立したので要チェック人物なのです。というか、ソウルで日本軍の陣所めぐりをするなら、文禄・慶長の役の話はマストなので、ちょこっとまとめておきますかね☆


        文禄・慶長の役とソウル


秀吉の朝鮮出兵は、文禄年間と慶長年間、2回にわたり行われたので、文禄・慶長の役と呼ばれます。韓国では壬辰・丁酉倭乱と。佐賀県の名護屋城に本陣を置き、1592(文禄元)年に15万もの兵で朝鮮に攻め込んで、4月に釜山に上陸した日本軍は、わずか1日で釜山城を落とし、5月には首都の漢城(ソウル)を占領。破竹の勢いで朝鮮半島を北上していきました。

しかし快進撃もここまで。明からの援軍が到着し、朝鮮の将軍、李舜臣(イ・スンシン)が亀甲船を率いて制海権を取り戻し、秀吉軍は食糧などの物資を運ぶことが出来なくなりました。膠着状態となったため、小西行長らは和交渉に入りましたが、勝ってると思っている秀吉は強気の姿勢。交渉は決裂となり、1597年(慶長2)年に14万の兵で再び朝鮮へと出兵することになりました。

ところが2度目の出兵では朝鮮半島の南部にまでしか攻め入ることもできず、持久戦へ。秀吉軍はまたもや窮乏に苦しめられます。そして1598年8月に秀吉が病死。そこで終戦の機運に傾き、甚大な被害を朝鮮半島に及ぼし、日本から渡海した多くの人をも死なせてしまった朝鮮出兵は、幕を閉じたのでした。

だから秀吉軍がソウルを占拠し滞在していたのは、1592年から1593年の約1年。秀吉軍は9軍から成り、加藤清正、小西行長、鍋島直茂、黒田長政、大友義統、島津義弘・豊久、福島正則、長宗我部元親、小早川隆景、立花宗茂、毛利輝元、宇喜多秀家、羽柴秀勝、細川忠興、宗義智ら、錚々たる面々が揃っていました。

このうち小西行長、黒田長政、大友義統、宗義智がキリシタン大名。武将クラスでも内藤如安ら、多くのキリシタンがいました。ねっ、私が来たかった理由分かるでしょ(^_-)-☆?




徳寿宮解説

徳寿宮の門

徳寿宮

貞洞


徳寿宮は月休なので今日は入れず、塀に沿って貞洞地域へ。貞洞劇場や国立現代美術館などがあって、アートの街となっています。

しかーし、ここに明石掃部守重(あかし・かもん・もりしげ。全登、景盛とも)が陣を敷いていたのです。

明石掃部はめっちゃ信仰篤いキリシタン。壬辰倭乱(イムジン・ウェラン)の時はまだ洗礼受けてませんでしたが。

これも後の話だけれど、お隣の徳寿宮にいた花房志摩守とは、宇喜多騒動で対立しますね。この争いはざっくり言うと、キリシタンと日蓮宗徒との対立から生まれたもので、宇喜多家の存続が危ぶまれるほどの事件だった訳ですが、ここでよく交流して和睦していたら、もっと違った結果だったのではないかと思います。

慶長の役が終わって帰国してすぐに勃発しましたからね。天は先に和睦の道を示していたのかもしれないなと。歴史からの教訓を自分に当てはめてみると、黙るしかないのですけど。互い和睦してこそ、自分も相手も生きるというのは、確かなことのようですね☆彡



徳寿宮の塀

現代アート

解説板

貞洞第一教会


国立現代美術館から見て、ロータリーの向こう岸にあるのが貞洞第一教会。

修復中で入れないことは分かっていたんですが、メソジストで一番大きい教会ということで来てみました。

100年くらい経つのかな?日本のその時期の教会建築と似ていて、もしかしたら建築家や依頼主が同じだったりするかも。またいつか来てみましょー。

平昌オリンピックが近いからか、イメージキャラクターがいますね。韓国にはゆるキャラってないんでしょうか?しっかりしていて、隙がないように見えますね。ゆるいくらいが、私は好きなんだけど^^



貞洞第一教会

イメージキャラクター

市庁前


では市庁前に戻ってっと。市庁前の広場は毎年スケートリンクになる所ですね。今はその工事中なのか囲ってあります。

つい最近、パク・クネさんの辞任を求めてデモした所で、冬にはスケート滑るって・・・、どうなんでしょ。心理的に引っかかるところはないものなのか?

ツリーは既に設置済みで、クリスマスムード盛り上げようとしてる感じはします。



ウエスティン朝鮮ホテル


何車線もある道路の向こうに見えるのが、ウエスティン朝鮮ホテル。次はそこを目指そうとしているんですが、横断歩道はおろか歩道橋もありません。

しばらく悩んで地下に下りると、駅にしかつながっていないと思っていた地下道が、縦横無尽に伸びて様々な方向に行けるようになっていました。

これらの地下道が何であるのか、後で韓国人に聞いてみたら、韓国はまだ戦争中だからいつでも避難できるよう防空壕になっているというのが一つ。またやはり戦略的な理由で、道が空から把握されないというというのが一つ。それから雪が多いから地下道が便利というのがあるそうです。

日本では洪水や地震があるから、別の発想をしますが、地理とか地政学リスクとか、都市の成り立ちっていろんな要素で構成されるんだなと思いました。なんだか不思議。大人の社会見学ですね。そうこうしながらウエスティン朝鮮に到着。



ウエスティン朝鮮

地名由来

解説板

入口の像

圜丘壇


こちらが圜丘壇(ホァングダン)。朝鮮時代末期に王が祭祀を執り行った所です。

勘のいい方はお気付きでしょうが、ここが朝鮮出兵の時の本陣跡!(誰も気付かないって?)

宇喜多秀家が率いる秀吉軍本陣がここにありました。

圜丘壇自体は1913年に築かれたものなので(意外と新しい!)、425年もの前の朝鮮出兵時にはなかった訳ですが、その頃は小公主と呼ばれる姫(「公主」というのが日本語の「姫」に相当)が住んでいた家があったもよう。

で、ここに宇喜多秀家は、天守を備えた日本式城郭を築いたというから、もう超びっくり。ソウルの真ん中に、日本のお城が聳えていた様子を想像するだけでも、ワクワクするというより、不穏な空気が漂っちゃいます(どんなに研究進んでも、絶対復元されないだろうな・・・)。

宇喜多秀家は最初、これから行く宗廟に本陣を構え、次にこちらに移って本格的な城郭を築いて本陣を移しました。それは秀吉を迎えるためだったろうと考えられます。またこの時期日本軍は、住民に通行証を発行して、これを持つ者には城門の通過を許可するなど、行政的な取り組みを始めています。

つまりソウルのど真ん中、しかも平地に城郭を築いて、いわば行政府としての機能を持たせるようにしたのです。だから425年前の、日本による朝鮮支配の本拠地ですね。

もっと注目されてもいい場所なのではないかと思います。日本の城ファン、戦国ファンもここまではまだ押し寄せていないので、来るなら今だ!(私も初めて来たけどね♪)



ホァングダン

解説板

解説板

ホァングダン

石鼓


こちらは敷地内にある石鼓。本来は音の出る楽器の鼓なのだけど、オブジェとして石で造って置いてあります。

しかし100年以上も前の高宗の時に造られたものだそうで、胴部分の龍の彫り物も非常に貴重なのだと解説板に書いてあります。

解説板に日本語があるとホッとしますね。なんだか日本人に「読め」と言いたいことは、全部日本語訳が付いている気がするけど、気のせいかな。。



石鼓

解説板

龍の彫り物

敷地内


世界遺産、宗廟も本陣跡!


宗廟


地下鉄に乗って、宗廟へ。宗廟の前にある公園が広すぎて、時間遅れそうになっちゃいましたが、何とかガイドツアーに間に合いました。

以前はチケットを買えば普通に見学できたのですが、今は土曜以外はガイドと共に参観しないとダメということになったようで。

日本語ガイドツアーは9:00、9:40(その後毎時40分)で、一回逃すと1時間後というのがツライです。

ここが宇喜多秀家の第一の本陣跡だから、行かない訳にもいかないし。宇喜多秀家麾下の明石掃部はもちろん、ソウルにおける日本軍本陣だから小西行長や内藤如庵もきっと来ていたことでしょう (´∀`*)ウフ



王の霊魂が通る道


ガイドツアーは約1時間ということですが、「今日は寒いのでサービスで50分にします」と、ガイドさん。

鉄板ギャグなのかと思いきや、終わってみたら50分弱だったので、本気だったのだと後で知りました。ま、それは良いでしょう、臨機応変で。

宗廟は建物がユネスコの世界文化遺産なだけでなく、祭礼が世界記憶遺産にもなっているそうな。朝鮮王朝の粋が集められた所なんですね。

さて、こちらの何気ない石畳が、王の霊魂だけが通っていい道だそうで、「絶対に踏まないでください!」とのこと。今は跨いだり、飛び越えたりしていいけど、昔はこの道を踏まないためにすんごく大回りしなきゃいけなかったんだとか。それ不便過ぎるよ;;



ガイドツアー

池凍ってる

厨房

王族の子孫は今もいる

正殿


宗廟は「廟」という文字が入っているけど、誰かが葬られたお墓ではなく、位牌(神位)を祀る宗教施設。

こちらは正殿(チョンジョン)で、歴代の王様と正室の位牌が左から順番に祀られていて、建物も左から順々に建て増しされていったものなんだとか。

前の石庭は全部舞台。王様たちの霊魂に見せる舞踊楽曲を演ずる所だそう。舞台は排水を考えて、真ん中が盛り上がっていて、端の所から雨水が落ちるようになっています。昔のハイテクですね。中国に原型がありそうだけど。



正殿

正殿

正殿

霊魂が通る門

永寧殿


こちらが永寧殿(ヨンニョンジョン)。正殿と何が違うの?って感じですが、真ん中の屋根が高いのが違いです(間違い探しのようですが^^;)。

永寧殿は、正殿にずっと祀られていなかった王と王妃の位牌を移動し、祭祀を行った別廟で、ここに日本人が一人祀られています。

それは李垠(イ・ウン)の妃だった李方子(り・まさこ)。李垠は皇太子だから、王とは言えないのですが、後に朴大統領の許可を経て祀りましょうということになり、夫婦共々位牌が収められました。

確か李垠はカトリックのクリスチャンですよね。キリスト教徒の位牌って、聞いたことないんですが、それが作られ、更に祀られるって、果たしてうれしいことなのかどうか。いつの時代もお墓や廟は、弔う方の都合に合わせて造られるような気がします。

日本側から見た朝鮮出兵(日本では「唐入り」という言い方をしていた)のことは、佐賀の名護屋城を訪れた時の旅行記(バテレンが愛した海 vol.3)にアツーく書いているので、良かったらご参照くださいませ☆彡



永寧殿

永寧殿

ガイドツアー終了

世界遺産

このおじさんは?


ガイドツアーが終わって外に出ると、公園に一人のおじさんの像が。装束からして昔の偉いお坊さんかと思いきや、あにはからんやクリスチャンだとは!

韓国YMCA初代総務に就任し、YMCAの活動を通して、人材育成や愛国啓蒙運動を進め、独立の機運を高めた人だそう。

クリスチャンに出会えてうれしいですが、日本からの独立運動をしたから銅像になっている訳で、そこは何ともコメントしづらいです。すごいなーとも言えないし。こういう場合、日本人はどんな顔をするのが正解なんでしょう。

向こうにキリスト教的なカッコいい塔が見えて、ちょっと行きたい気持ちも湧いてくるけど、急激に疲れが襲ってきて、今日はやめておくことに。公園出口の所にも「李東寧主席家跡」という碑があって、「主席」ということは共産主義かなと思いながら何気なく読んだら、「国外に亡命する時まで独立協会運動を広げた所」だとか。

もう・・・どうしたらいいんでしょうね。ソウルは、いや、もしかしたら韓国全土は、日本人にとってダークツーリズムスポットかもしれませんよ。



解説板

キリスト教的な塔

李東寧主席家跡

タプコル公園


しかし隣国であり、歴史的に経緯が多く多いからこそ、互いに知ることが必要であろうというのが、私の考えなので、重ーい足取りでタプコル公園へ。

タプコル公園は三・一独立運動の発祥地。1919年3月1日、ここに宗教指導者らが集い、独立宣言を読み上げることを計画(実際には仁寺洞の泰和館に変更)。独立宣言を朗読し万歳三唱をしたことから、独立運動が全国に広がっていきました。

朝鮮のジャンヌダルクと言われる柳寛順(ユ・グァンスン)は、梨花学堂(今の梨花女子大の前身)に学ぶ学生でしたが、故郷の天安で万歳デモに参加(両親はこの時日本の憲兵に撃たれて死亡)。逮捕され、西大門刑務所で拷問を受け獄中死しました。ああ、両国の歴史って、知れば知るほど・・・((+_+))



解説板

石碑

孫乗熙銅像

タプコル公園内

八角亭


タプコル公園は朝鮮時代に円覚寺という寺があった場所で、国宝の円覚寺址十層石塔があることで有名。この塔があることから、昔はパゴダ公園と呼ばれていました。

お寺の跡という雰囲気は残っていますが、今は一見、老人が集う公園って感じ。しかしよく見ると、あの八角亭は独立宣言書が読まれたとされる場所だし、銅像になっているのは独立運動の指導者、孫乗熙(ソン・ビョンヒ)ですしね。

孫乗熙は天道教前教主。三・一独立運動の代表とされる人々(「民族代表33人」と言われる)は天道教やキリスト教、仏教の指導者たちで構成されていました。キリスト教からはプロテスタントの諸派が参加し、カトリックは名を連ねていないのが不思議です。



八角亭

解説板

円覚寺碑

宝物に指定

これがタプコル!


こちらが国宝の円覚寺址十層石塔。通称タプコルです。

思ったより大きくて、びっくりかも。写真で見るのと違いますね。

人との比較で大きさを分かってもらえたらと思います。

ちなみにこの女性は、携帯プレイヤーでお経を流してお祈り中。そういう人が他にもう一人いたので、メジャーなお参りの仕方と見受けました。仏教徒の祈祷方法も国によって違いがあるようですね。



タプコル

解説板

解説板

レリーフ群


タプコル公園の壁際には、10枚のレリーフ群が。パッと見ただけで独立運動のものと分かる代物で、日本人が近寄ってしげしげ見るべきか迷うところですが・・・拝見しましょうかね。

手前から時系列になっているよう(壁に沿って時計と逆回り)で、場面はソウルだけでなく、朝鮮半島各地から切り取られています。

十字架が目を引くこちらのレリーフは、平壌のキリスト教信者による万歳示威行動(デモ)。下のサムネイルは、左から順に、咸鏡道の民衆による万歳デモ、平壌の万歳デモ(全体)、天安のデモと柳寛順、晋州のキーセン(妓生。芸妓のこと)数百人による万歳デモ。

水原の堤岩里事件の物もありますね。数年前に行きましたが、言葉を失うしかありませんでした。キリスト教徒らを教会に追い込み、火をつけて殺しただなんて・・・。やっちゃいけないところまでやってたということです、日本の憲兵が。

晋州のキーセンのレリーフ解説板にも恐ろしいこと書いてあります。「彼女たちは『われわれはノンゲの後身だ』と言って愛国歌を歌いながら勇敢に行進した」と。ノンゲは壬申倭乱(朝鮮出兵の文禄の役の方)の時に日本軍の武将を道連れに身投げした女性(キーセン)です。

というか、朝鮮人の中では、425年前の壬申倭乱と100年前の独立運動とはリンクしていたってことですよ。恨みが恨みとつながっていることを、こちら側の無知によって無視していいものか。補償問題とかの前に解かないといけないことがあるように思います。



咸鏡道の万歳デモ

平壌の万歳デモ

天安の柳寛順

晋州のキーセン


ダークツーリズムは続く・・・


プルコギキンパプ


「ああ、体から力が抜けていく。。」と思っていたら、ご飯食べるの忘れてたことに気付きました。ハイペースで回り過ぎて、栄養補給を失念してました。

適当に食堂に入ることも出来ず、目の前にあったコンビニに入ってイートインスペースでキンパプを。サラリーマンに混じってレンジでチンするなんて、日本でもしたことないけど、ま、いいか (^_^;)

結果的に言いますと、このチョイスは良かったですね。時間短縮になって。滞在時間が限られていることを思うと、あまりゆっくりもしてられないのです。ごちそうさまー☆



日本大使館はどこに?


さて次に目指しているのは在韓日本大使館。いわゆる従軍慰安婦像なるものが、その前に建てられているということで。

この像が恨めしく日本大使館前に建てられているというニュースを、何度もテレビで見たけれど、実際に実物を見たことがないなと思ったものですから。

それが、なかなか日本大使館が見つからなくて四苦八苦。まさか通りがかりの人に「従軍慰安婦像どこですか?」とも聞けなくて(韓国語で何と言うのか知らないし;;)。大使館って、パスポート失くした人も行かなきゃいけないんだろうに、結構探すの大変じゃないのかなと思っちゃいました。




でかいビル

すごいビル

こんな所に・・・


韓国警察の装甲車が警備する一角に、日本大使館の入口があり、道を挟んだ反対側の歩道に、その像はありました。

これか。こんな所に・・・。

もっと目立つ場所にあって、目の前で睨み付けているんだと思っていました。だけど設置されていたのは、大通りではなく、一本入った小道。しかも道の反対側です。この運動をしている人の休憩場所となっているビニール製テントがあるために、その陰になって目立ってもいませんし(個人の受け止め方は様々でしょうけど)。

募金署名活動する人たちに会釈すると、彼らも一応会釈を返し、私が写真を撮るのを黙って見ていました。慰安婦像の影、初めて見ました。そこに蝶が舞っているのを。何とかならないか、ではなく、何とかしなければと思いました。歴史問題を人の力で解くことが出来ないならば、祈ることからでも――。



次は景福宮


最後は景福宮。韓国来るたびに訪れるって噂もありますが、自分一人というのは初。

せっかくだから今回は観光的な目玉はすっ飛ばして、行きたい場所にのみオールインしたいと思います。

とりあえず興宣大院君(フンソンデウォングン)と、閔妃(ミンビ)暗殺関係を押さえたいです。閉園時間が迫っているので、早足でゴー。



王様の部屋の絵

回廊

韓服だと入場無料

オンドルの煙突

慶会楼の池


「それにしても広いな・・・」と、思わず口に出して言ってしまうほど広大な景福宮。いつも入口付近の門とか宮殿しか見てなかったから、なめてましたわ。

景福宮は文禄の役(韓国では「壬辰倭乱」と呼ぶのが一般的なので、今後そちらを使いますね)の時にも燃えてしまいましたが、1866年の火災でも大部分を焼失。

これを再建するために手段を選ばなかったのが、興宣大院君です。官職をお金で売っちゃうまでしましたからね。だから景福宮の所々に興宣大院君の姿を垣間見ることが出来るのです。

そうそう、興宣大院君はクリスチャンの大迫害者で、切頭山殉教地があるのは、彼がそこで数千人を処刑したからです。そのせいか、観光客の集う慶会楼の池を見ても、素直に「キレイだなー」とは言ってられない気分でして。写真スポットではありますけどね。



慶会楼の池

康寧殿地図

康寧殿

焼厨房にはレストラン

宝物809号


興宣大院君が暮らした慈慶殿を「じけいでん、じけいでん・・・」と探していたら、おっと!その名がハングルで書かれた石碑を発見。宝物809号に指定されているから、名前だけ書いた石碑まで建てられているんですね (--〆)ムー

キリスト教徒にとっては、不俱戴天のナントカなんですけど(敵とか言えないのがクリスチャンあるある)。
ハングル勉強しておいて良かったー。



慈慶殿


こちらが慈慶殿。規模こそ勤政殿などには及ばないものの、細部までこだわった豪奢な造りだということは分かります。

アイツ・・・、ここで暮らしながら、宣教師やクリスチャン(カトリック教徒)の処刑を命じたんだな。。

         
         興宣大院君と丙寅洋擾


興宣大院君の時代(この人、自分の息子の高宗が王なのに、まだ幼いからって政権握ってたんです)、朝鮮沿岸に外国船が現れるようになり、中には略奪に及ぶものもあったので、フランスの力を借りて駆逐しようなんてことを考えました。興宣大院君はそれをフランス人宣教師を通してやろうとしたのですが、当の宣教師が反対して提案はボツに。

すると興宣大院君は「フランス人宣教師憎し」とばかり、国内にいた9人のフランス人宣教師を血祭りにあげました。これを知ったフランス艦隊のローズ提督は1866年11月、朝鮮半島の西にある江華島を攻撃。これを丙寅洋擾(ピョンイニャンヨ)といいます。

江華島攻撃の前に、そこら辺の地理をカトリック教徒が案内していたと聞いて、興宣大院君は激怒。切頭山(チョルトゥサン)で数千人を処刑しました。元々その場所には「楊花津」という風雅な地名が付けられていたのに、見せしめのために多数の人が斬首されたため、「切頭山」と呼ばれるようになったのです。

今は「切頭山殉教地」が整備され、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世も訪れたりしていますが、「切頭山を作ったのお前だから!」と言いたいです。慈慶殿は床が高くなっていて、「殿」っぽいのがムカつきますね。中には調度品とか何も無いけど。




慈慶殿

慈慶殿

慈慶殿

慈慶殿

慈慶殿の煙突


裏手に回ると、外国人観光客の群れが。ガイドさんが曰く、慈慶殿を温めるオンドルは何だかすごく凝っていて、朝鮮時代を代表するものなんだそう。

機能性を備えた造形美ってやつで。慈慶殿を囲む塀にもそれは感じましたよ。傍に有能なデザイナーが仕えていたんでしょうね。

それでも慈慶殿の内部同様、どこかもぬけの殻感を否めませんが。



慈慶殿十長生煙突

解説板

慈慶殿の塀

慈慶殿の塀

北漢山


慈慶殿は景福宮全体の、ちょうど真ん中辺りの東寄りにあります。つまりそこから更にまた半分くらいの敷地が背後に広がっているのです。要するに、広い!

で、人々があまり足を延ばさないエリアである最奥の所に、高宗と閔妃は宮殿を設けて暮らしていました。高宗の父、興宣大院君の干渉を避けるために、距離をおいたんだということがバレバレですが。

次は高宗と閔妃がいた乾清宮を探さないといけないんですが、時刻は午後4時半。5時に閉園なので、係員たちが帰り支度を始めています。急げー (;'∀')ドコドコ?



たくさん建物ある

ここは違うらしい

倉庫だったみたい

民俗博物館

乾清宮、発見。


結構走り回って(景福宮で走っている人も珍しい;;)、乾清宮を発見。乾清宮は閔妃が住んでいたというだけでなく、殺害された宮でもあります。

誰にって? そりゃ日本軍と日本人浪人たちですよ。さあ、ダークツーリズムの仕上げです。ここに来ないと、韓国人のハン(恨)は到底理解できないかと。

「閔妃」とは、字義的には「閔氏の王妃」という意味ですが、韓国人にとって「閔妃」と言えば、高宗の妃であるこの人を指すのが通例。明成皇后(ミョンソンファンフ)という呼称もよく使われますけどね。



乾清宮

配置図

解説文

乾清宮

坤寧閣


乾清宮の中でもこちらの坤寧閣が閔妃殺害の犯行現場。

そのことが解説板に憎々しげに記されています。

文面から放たれる敵意に悪寒がしてくるほど。アウェーの中のアウェー、それがこちらの宮ではないかと。


「閔妃暗殺」と反日アイコン


随分昔に「閔妃暗殺」という本を読んだことがあります。何かの賞を取ったとかで、当時の話題作だったんだと思います。その頃の私ときたら「韓国って朝鮮のこと?」というくらいのレベルだった(どんだけアホ;;)のですが、ここに押し入った日本人の乱暴狼藉の箇所を目で追っているだけで気分が悪くなった覚えが。今だにその印象に残っているのですから、韓国人にとっては尚更ですよね。

閔妃は縁者びいきで不正腐敗をはびこらせ、占いや呪(まじな)いハマって蕩尽し、奢侈な生活で財政破綻を招いたのみならず、金玉均(朝鮮独立党を率いた政治家)を暗殺し、大院君も暗殺しようとした女性。

解説板に書かれたような「美徳を備えた美人」とは、お世辞にも言えない気がしますが、こんなこと日本人が言ったら吊るし上げられることは必至。閔妃は反日のアイコン、もっと言うならアイドルなのです。



解説板

解説文

坤寧閣

坤寧閣

長安堂


乾清宮の中心を占める長安堂に回ってみました。ここで数々の政策を打ち出したことでしょう。高宗は側室と遊んで、政治は閔妃の言いなりになっていました。

カトリック教徒の処刑では、興宣大院君が全面に出ていましたが、高宗が大人になってからは、閔妃一族による専横が目立ち、逆に興宣大院君は敵視される立場に。

もちろん興宣大院君だって悪巧みでは負けてはおらず、閔妃の宮殿に爆弾を仕掛けさせたり、親戚を殺させたりしているのですが。放火もしているし、毒も盛っていたようですね。おー、コワ(>_<)


朝鮮王朝の不正腐敗と閔妃暗殺


つまり、この時の朝鮮王朝(李氏朝鮮)は宮中に腐敗がはびこって、行き詰っていたのです。国民は苛政にどんなに喘いでいたか。国庫が尽きて、官吏たちの俸給も滞るほどでしたが、王と王妃は浪費をやめようともしない。そんな折に外国勢力が様々な思惑で絡んできた訳ですが、国内も治められないのに、外圧をはねのけるなんてことが出来るはずもありません。

興宣大院君vs高宗・閔妃(実質的には閔妃一族)の抗争もピークに達し、そこで起こったのが閔妃暗殺でした。控えめに言っても、日本の後ろで興宣大院が暗躍していたのは間違いないでしょうけど、韓国でそんなこと言ったら親日派(チニルパ)のレッテル張られて大変。日本人に殺されたからこそ美化されて、人気ドラマにもなっているのですから。

思うに、韓国をまともな国にしようとした金玉均が暗殺された時点で、閔妃の末路は決まっていたのではないかと。人をそんな風に殺したりしたら、自分に降りかかってくることがあると、彼女が頼った祈祷師たちは教えてくれなかったのでしょうか。

画策したのが誰にせよ、実行犯が日本人なら、その責(せめ)は負うべきでしょう。ここに立っていても、警備の韓国人たちの視線が痛いです。

だけど天から見たら、日本は、腐敗した当時の政治体制を打つムチのようなものだったのかもしれません。日本を使って天が叩いたとしたら、誰が抗弁出来るでしょうか。こんなこと日本人が言ったら・・・サイト閉鎖に追い込まれちゃうかもしれませんね。この辺にしとこっと。



乾清宮

長安堂

長安堂

香遠亭




つながっているものが一つならば


歴史を直視するというのは実にエネルギーの要ることだと、今日あらためて感じました。また、ある一定の時だけを凝視していると、却って見えにくくなるという弊害も。特に日韓関係史では、全体を俯瞰して、つながりを辿らなければいけないことが多々あるようです。

あちこち歩いてみて感じたのは、壬辰倭乱、閔妃暗殺、三・一独立運動は根っこでつながっていて、それが従軍慰安婦像として表出しているのではないかということ。ならばあの像がどうだと言う前に、背景から知らなければならないということになります。つながっているものを一つと数えるのなら、これは本質的に一つの問題なのですから。

予想外に、日韓のダークツーリズムスポットを訪ねる流れになっている、今回の旅。何か発言するたびに、誰かの怒りを受けたり(あるいは右派にめっちゃ喜ばれたり;;)するのを覚悟して進まなければならなさそうです。それでも俯瞰して見つめ続けることで、見えてくることもあると信じて。

自分でも計画してなかったところに引っ張られていくような感覚がしますが、これが天の御導き? そうだといいなぁー (^▽^;)アハ...






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