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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ソウル松山キリシタンの旅 2


今日もソウルを回ります。キリシタン女子(この呼び名を私以外に名乗っている人いなさそうだけど^^;)としては、ソウルは欠くことができない場所なのです。ここで人生を考え、転機を迎えたからこそ、その後の生き方が変わったという人が多くて。

韓国は韓国で好きで、キリシタンはキリシタンで興味深いと思っていましたが、どうやら重なっていたようですね。この着想を解きほぐせるといいなー☆彡



西江大学


西江(ソガン)大学は、宿から徒歩5分。この大学が近くにあるから、今回の宿を取ったというのもあります。

カトリックの大学で、パク・クネ元大統領も卒業生。パク・クネはカトリックで受洗しているので、あの事件が起こるまで、クリスチャンとばかり思っていました。

朝早いけど、校門開いてますね。良かった♪



殉教顕彰碑


見に来たかったのは、こちらの殉教顕彰碑。

構内のガブリエル館前の庭に建てられています。

探し回らずに済んでラッキー。

ここが殉教地ということではないのですが、西江大学のあるノゴサン(老姑山)という所が、殉教者の遺骸が一時置かれた(4年間密かに埋められていた)場所だったため、顕彰碑が建てられています。

カトリックの大学ということもあるでしょうけど、遺骸が一時置かれたというだけで、こんな碑や、彫刻作品まで建てて記念してくれるところも少ないでしょうね。カトリック教徒は韓国国民の10分の1ほどいると聞きましたが。考えてみると、10分の1ってすごいですね。プロテスタントはまた別にもっと多くいるということを思うと。


己亥迫害と朝鮮王朝


遺骸が置かれたのは、1839年の己亥(キヘ)迫害で殉教したエンベル神父、モーバン神父、シャスタン神父の3人。いずれもパリ外国宣教会から派遣された宣教師でした。エンベル神父は教区長でもあり主教。いわば代表者です。殺すなんてこと、よく出来たもんです。フランスとのパイプ役にもなったはずなのに。

キヘ迫害の時の王は第24代の憲宗ですが、即位した時幼かったため、祖母の純元王后が摂政をしていて、その間になされた処刑でした。憲宗は7歳で即位して、15歳で親政を始めるのですが、22歳で崩御しています。元々病弱だったのかもしれませんが、それにしても早いかと。

ちなみに次の25代が哲宗で、26代国王となったのが高宗。この間に挟まってくるのが興宣大院君ですね。国内が風雲急を告げる状態だったことはよく理解できます。こういう転換期に、自己の立場や目先の利権を優先せずに、大局的なものの見方が出来たらどんなにいいだろうと思うんですが・・・。それが出来ないのが人間の限界のような気がします。



解説碑

3人の彫刻

西江大学

オブジェ


イエズス会が運営する大学だけあって、敷地内中央に野外礼拝所があります。オブジェがモダンで素敵。

クリスマスを迎えるためのベツレヘムも、等身大で気合いを十分。普通は省略される馬小屋の厩舎部分も作り込んであります。

クリスマス当日になると、中央の飼い葉桶に赤ちゃんの人形が置かれるんでしょうね。羊たちの可愛さが反則です (o^^o)



ベツレヘム

ベツレヘム

小規模店舗の上に十字架


地下鉄に乗ろうとデフン駅に向かっていると、若干寂れ気味の小規模店舗の上に、店より高さのある十字架が。

どこかの宣教会や教派とかでなく、個人で建てているものみたいな感じです。

個人が主に栄光を捧げようと、このような形で信仰を表すことが、日本であるでしょうか。日本にはそれを許す空気さえ乏しいように思えます。

西江大学はカトリックなのに、すぐ隣にあたる所にはプロテスタントのデフン教会。あちこちに信仰の片鱗を見かけるのは、クリスチャンとしてはうれしい光景だったり。クリスマスにソウルも良いかもですね☆



デフン教会

迷いに迷って現在地


デフン駅から孝昌公園前駅までは順調だったのだけど、そこから迷いに迷って、原状復帰して、今ここ(←の赤丸)です。

20~30分は歩きましたかね。時間のロスもそうですが、寒空の下延々歩いたので、体力消耗が著しく、この後の活動に響きそう (>_<)グスン

地図がねぇ、どうしても苦手で。。



この町角が


でもね、ここに来られたから、とりあえずは感謝です。この辺りに425年前、小西行長が管轄する日本軍の倉庫(軍資監)があったのです。

当然、小西行長に従って海を渡った配下の諸将が詰めていたんでしょうから、キリシタンもいたはず。異国の地で祈っていたはずなのです。

軍資監があったのは、現在の元暁路3街。「この辺り」としか分かりませんが、「この辺り」でも十分です。425年前には正確な地図もなく、今とは地形からして違っているから、ピンポイントでというのは所詮無理なので。バス停で待つ人々も、ここの住人たちも、たぶん恐らくきっと知らないでしょうね。一人で達成感感じてます。


          文禄の役と漢城帰還


文禄の役(韓国では壬申倭乱)が起こった文禄元年が過ぎて、文禄2年となると、朝鮮の後ろ盾となっている明の援軍が到着。戦いの様相は劇的に変わります。1月5日、明軍4万と朝鮮軍1万の兵は、小西行長らがいる平壌城を包囲。持久戦で疲弊したところに強襲を受け、小西らは平壌を撤退して漢城(今のソウル)に向かいました。

それに伴い、大友義統、黒田長政、小早川隆景らは宇喜多秀家の指示で漢城に集結し、明軍の来襲に備えることになりました。1月26日の碧蹄館の戦いで明を破り、進撃をくい止めたものの、明軍の勢いを止めることは出来ず、日本軍は漢城を固守する体制にシフト。

漢城入りした小西行長は、南大門外の龍山に陣を布きました。龍山には朝鮮の穀倉が置かれていて、穀物の集積場として使われていたので、その利便性に目が付けられたのです。その中で最も大きなものが、現・元暁路3街にあった軍資監。



兵糧不足と寒さに襲われ


漢城の日本軍が兵糧不足に悩まされたことは、多くの資料の語るところですが、それはこの軍資監が焼き討ちにあったからですね。3月13日、日本軍の弱点が兵量にあることを見抜いた明・朝鮮軍によって、龍山の兵糧倉13棟が焼き払われたことが記録に載っています。この少し前に宇喜多秀家陣所(ホァングダンの方)に大半の兵糧が移されていましたが、大打撃でした。

結局日本軍が和平交渉の過程で漢城を撤退した(秀吉には勝っていると報告していたけど、実質的には戦争を続けられる状況ではなくなっていた)のは、兵糧不足と寒さが理由でした。太閤秀吉の誇大妄想と無謀な計画のせいで、朝鮮人だけでなく、日本人もたくさん死んだのです。

日本とは比べ物にならないソウルの寒さを、今私も痛いほど感じていますが、風が吹きつけるたびに怨嗟の声が上がったことでしょう。・・・そんなことを考えているうちに、バスが何本も通り過ぎて行きました。次行きますかー。




軍資監跡

軍資監跡

軍資監跡

シンチャン第一教会


龍山の倉庫街だったため、この辺りの地名には「倉」の字が目立ちます。

こちらはシンチャン第一教会というそうですが、シンチャンは「新倉」ですね。

それらの建物を流用して、日本軍の用に充てた訳ですが、元々の持ち主にとっては、地理も弱みもお見通しだったことでしょう。



シンチャン第一教会

新倉

聖心女子中高等学校


緩やかな坂を上っていくと、聖心女子中高等学校が。カトリックサイト「PAXKOREA」に紹介されている史跡地です。

このサイト、「読めるもんなら読んでみろ!」ってくらい、韓国語オンリーですけど、ここより詳しいのがないので、よく利用しています。

国内初の近代的神学校の跡で、その神学校には1958年まで金大建神父の遺骸が安置されていたのだとか。金大建神父は朝鮮人初のキリスト教聖職者で、殉教者。聖人です。

中には入れそうにないので、ここで撮るだけですけど、意味ある所だから見てみたかったのです。小西行長や昔のキリシタンも基本カトリック(当時は日本にカトリックしか伝えられていなかったので、日本人にとってはキリスト教=カトリックだった)だから、場所的に信仰的に通じるものがあると思います。



聖心女子中高

プレート

ここから坂を上る


さて、と・・・。行くべき道は前の坂だということは分かるんですが、踏ん切りがつかないまま佇むこと数秒。傾斜がかなり急です。下ってくる車が猛スピードで変形四差路に突っ込んでくるくらいに。

ええい、ままよと足を運ぶも、ブーツの中で足が浮いてズルズル。保温性と機能性、耐久性を併せ持つ靴がソウルでは必要だと認識。しかしもう遅い。。

途中にお堂もありました。仏教というより、暦にちなんだ祭儀や行事を行うような感じ(?)。分からない単語が多すぎて解説板読めませんけども(そもそも長文を読みこなす力がない;;)。



お堂

お堂

お堂

ヨンサン聖堂


えっさかほいさ10分ほど上っていくと、龍山(ヨンサン)聖堂が。ここもPAXKOREAに上がっていますね。

こちらの聖職者墓地には4人の主教、67人の神父、2人の神学生、1人の殉教者が葬られているのだとか。

敷地広そうですね。中に入っていく時間がないので、今日は外観のみ。

サイトには「特に初代教区長ブルギエール神父の墓は必見」みたいなこと書かれていますけど。たぶんちゃんと見ようとしたら、半日かかっちゃうかと思うので (^▽^;)ムリー



ヨンサン聖堂

ヨンサン聖堂

ヨンサン聖堂

小西行長陣所跡


そーしーてー!坂を上りつめた辺りが小西行長陣所跡っ♪♪(この喜びを感じられるのが、地球上で私一人でないことを願う。。)

「レディアン」て読むのかな?そういう名前のアパート(日本でいう高層マンション)群です。ここには小西行長と一緒に宗義智(そう・よしとし。対馬を治めたキリシタン大名。洗礼名はダリオ。行長の娘婿でもあった)もいたはず。

明の遊撃将軍・沈惟敬との講和交渉の舞台となったのも、ここだったと考えられます。それから、朝鮮人で初めてキリスト教徒になったとされる、おたあジュリアも住んでいたことがあったのではないかと、私は思うのですが。


おたあジュリアの物語


おたあジュリアは、壬申倭乱の時、戦火の中で小西行長配下の者に保護され、行長が妻の元に送って養育させるようにした女の子で、長じて洗礼を受けキリシタンになりました。朝鮮貴族の子だったとか、大田出身だとか、平壌出身だとか、「おたあ」は朝鮮語の「いらっしゃいませ」からきているとか、いろんな説がありますが、それらの説が噴出しているのは、とにかく詳細不明だからです。

全ての説を紹介するのも何なので、恐縮ですが私の説を開陳させていただきますと、まず「おたあ」は単純に日本名(これが「大田」から来ているというのも無理があるし、日本で呼ばれていた名前なんだから)で、出自はソウルまたは平壌(日本軍の侵攻した領域からして)の両班(朝鮮貴族。たぶん服装とかきれいだったから人質としての価値があるかと思い捕らえた)だと思われます。

キリスト教に入信したのは、小西行長とジュスタ夫人が養育している過程で、宣教師らと見(まみ)える機会を得、そこで本人が希望して(行長が六条河原の露と消え、家康に仕えるようになってからも信仰生活をしていることから)であり、どんな経緯で家康の大奥の侍女になったかは不明ですが、知人を通して募集を知り、応募したのではないかと考えています。



おたあのその後


キリシタンだったために追放されることとなり、家康の側室になれば追放を免れると聞いても信仰を取ったのは資料からも裏付けられますが、伊豆大島や神津島に流されてそこで生涯を終えたというのは間違いで、神津島にあるという彼女の墓も作り話の類だと思います。その墓が彼女のもとのされた根拠は、伝統的な朝鮮墓だからと言うのですが、実際に見に行ってみたところ、典型的な日本の墓でした。

近年、宣教師の別の記録で、晩年のおたあジュリアが長崎で過ごしていた記述が見つかり、神津島で死んだ説は光を失っているのですが、未だに神津島では「ジュリア祭」が続けられ、「ジュリアの墓」という解説板はそのまま、巡礼団もミサを行いに行っています。ジュリアが足を留めた場所として巡礼するとか、キリシタンを島おこしの一つとすることはアリだと思いますが、史実は史実として知らせるべきだと思います。





小西行長陣所跡

小西行長陣所跡

小西行長陣所跡

小西行長陣所跡

坂道下るのも大変


さてさて、上るのに難儀した坂道は、下りるのも大変。腰と膝を曲げて、小股でチョコチョコ行くしかありません。少し凍っているような箇所もあり、滑って危険。こんな所で転んだら泣くに泣けません。

だけど小西行長の陣所が坂の天辺に設けられたのは、眼下に軍資監ともう一つの倉庫、宣倉を見張るためですね。今のように建物が立て込んでなければ、漢江に往来する船まで見渡せたことでしょう。戦略的には大正解。小西行長はよく小説やドラマで無能な武将として描かれているのですが、そのイメージを払拭してほしいと、常々思っております。


小西行長の名誉挽回のために申しますと・・・


行長は元々堺の商人の息子で、それゆえ補給部隊としての手腕は優れていた(つまりホワイトカラー的な仕事はできた)けど、戦いは不得手だった(だから負けた。関ヶ原の敗軍の将だった)というのですが、多くの場合、戦いは武将の才覚や勇猛果敢さだけで決するものではありません。

朝鮮出兵自体が無謀かつ乱暴な、計画の時点で負けることが十分予想される戦なのに、秀吉の命に逆らえなかったから、皆渡海したのです。それを現場で覆してくる方が難題です。だから初戦で一気に勝ちを得て、これ以上侵攻しない代わりに和議を結んで「勝利」しようとしたのは、すごーく頭の良い作戦です。


武力も再評価してほしい!


武力的に言ってもどうでしょう、第一軍の統将として一気に敵を蹴散らして平壌まで攻め上り、文禄2年に城をこちらの何倍にもなる5万の兵に取り囲まれて防戦し、その上そこから脱出して漢城まで戻ってきたのです(再評価ポイント1)。

敵軍が大砲をぶっ放し、「響き方雷のごとく、山獄震揺す。火箭を乱放し、烟焔数十里にみなぎり、し尺分かたず、ただ突滅の声、砲響にまじわる」(by「宣祖実録」)という中を、弓矢小銃のみで対して一歩も引かずに防戦したことを、誰が勇敢と言わないでおけましょうか(再評価ポイント2)。

彼が率いる日本軍が、凍った大同江を渡って後退したことも、並外れた指揮力をうかがわせます(再評価ポイント3)。武勇で聞こえた加藤清正ほどではないにしても、行長だってやることやって成果挙げてるんです。頑張れー、コニタン!


行長の視点


漢城でも、他の武将たちが西大門から南大門にかけての城門内に布陣したのと反対に、行長は城門の外である龍山の小山の上に陣取りました。これは全体のバランスをみて諸将の会議で決まったことでしょうけど、行長の目の付け所が秀逸であったことは疑う余地がありません。

避けることができない長期戦を予想し、補給が断たれないようここに陣取ったのです。結局日本軍が兵量不足で撤退を余儀なくされたことを思えば、行長の視点はもっと評価されてもしかるべきで――。ちょっと語り過ぎましたかね。以上、小西行長の名誉挽回のために叫ばせていただきました (●´ω`●)



日本軍の倉庫跡


坂を下りきって西側に歩くと、清岩洞(日帝時代は清水町と呼ばれていた)。ここの辺りにもう一つの倉庫群、宣倉がありました。主に穀物を備蓄していたようです。

軍資監と宣倉と、それを見張るような所に設けられた小西行長陣所。これらには守備の砲台が築造されていたようです。

恐らく石造で、日本っぽいものではなかったかと。「京城府史」には「昭和の初年迄日本式城塞らしいものが残って居た」とあるので、石垣が築かれていた可能性があります。一目で日本と分かる城塞となれば、やはり石垣かなと思い。今とは全然違う町の様子が思い浮かびます。



宣倉跡

宣倉跡

宣倉跡

またもや林立するアパート群


宣倉跡見たさに清岩洞まで来てしまったので、次の目的地までまた30分以上歩かなければなりません (´;ω;`)ショボン

バスが頻繁に通り過ぎて行きますが、どれに乗って良いものか・・・。土地勘と語学力のないワタクシにはデンジャラス。

地図片手にフラフラしていたら、一人用販売カーで新聞を売っているおばさんに、「どこに行かれるんですか?」と話しかけられました。

しゃべり方が「どこに目つけてんだよ、ボケ!」みたいな感じだったので、向こうが敬語を使っているのも気付かずに、道を避けていたのですが、もう一度ゆっくり言われて理解。親切心で言ってくれてたんですネ。行きたい場所を言うと、「ここずーっと真っ直ぐ行ってください」とのこと。サンキューです。

ずーっと行くと・・・どんどん団地(アパート群)の深部に入っていくんですけど、良いんでしょうかねぇ。途中、洞窟通り抜けみたいなものまである道を進みながら、不安に駆られる私。まだ昼間だからいいものの、人っ子一人いない道を行くのって苦手です。基本小心ですので。こういう時一人はツライなと。



アパート群

洞窟通り抜け道

タンコゲ殉教聖地


迷子にならない方がおかしいくらいのアパート群の中央、林立する高層建物が影を落とす場所に、ようやくタンコゲ殉教聖地を発見。

アパート群の入口からも10分以上はあったかと。ここ、殉教地なんですよね。たぶん広い刑場だったのが、再開発されて今のように生まれ変わったのでしょう。

タンコゲ殉教聖地は、ソウル市内では3番目に多い、10人の殉教者を出した地です。1番、2番を占める、切頭山、セナムトに比べれば人数は遥かに少ないですが、ここだけ来られてなかったので来たかったのです。



両手を広げるキリスト像


公園として整備された殉教聖地の一角には、聖堂が。

アパートは民営のもののようだけど、公園はカトリック教会が管理しているのか?

詳細は不明ですが、入ってみましょう。全身めっちゃ冷えてて、足も棒ですから。両手を広げるキリスト像が優しげだー。主よー♪



タンコゲ殉教聖地聖堂

タンコゲ殉教地

刑具

扉のデザイン◎

聖堂内


聖堂内にはお祈りしている人が一人。事務所にも何人か詰めているようです。平日の昼間なのに、祈りの火が消えていないのが良いですね。

10人が処刑されたのは、いずれも1839年の己亥(キヘ)迫害の時で、12月27日に7人、翌28日に3人。

このうち9人が列聖されていて、1人が列福されています。全員がしっかり列聖・列福されているのは、近年であることに加えて、それを意識して記録を残したことに理由があるでしょう。

2014年8月16日、ローマ教皇フランシスコ1世が来韓して列福した中に、タンコゲでの殉教者もいたということですね。ちなみに前日の8月15日、この日は韓国では光復節として祝われているのですが、来韓中のフランシスコ1世は大田で記念の大ミサを行いました。歴史的に非常に意味深いことだったように思います。



タンコゲ聖堂

聖堂内

聖堂内

十字架モザイク


奨忠壇を見に行こう


東大入口駅で下りて


では次は、地下鉄に乗って奨忠壇公園へと参りましょうか。東大入口駅で下車して地上に上がると、もうそこが公園入口です。

駅名の「東大」は東国大学の略で、日本の東京大学とは無関係(当然か)。東国大学は仏教系なので、正門脇に大きな大師(偉いお坊さんのこと)像が建てられています。

日本の仏教系大学との交換留学も盛んなようですよ。韓国はキリスト教の国というより、宗教の国なのかもしれません。



周辺地図

奨忠壇公園

水標橋


「わーい、水標橋(スピョギョ)! これ本物が見たかったんだー」と、公園内の橋に駆け寄って、「?」。何か違うような?

そう、昔の橋だから木製のはずが、石造。しかも真新しさ満点。解説板を読むと、「水標橋は最初奨忠壇に移されたが、後に世宗大王記念館に再度移された」とな!

ダメじゃん。言ってよ。本物見たかったら世宗大王記念館に行かなくちゃ。日本での情報には時差があることを痛感。

なぜそんなに見たいかというと、水標橋のすぐそばで、韓国で最初の洗礼が行われたと考えられているから。そこにイ・ビョクという人の家があり、クリスチャンが生まれていたんですね。だからイ・ビョクや初期のクリスチャンたちが日々通ったであろう橋が見たかったのです。公園内にあるのなら、触れるのかなと思ったし。

初期のクリスチャンたちが橋の上から川を眺め、季節を感じたんだろうなと思うと、ちょっと愉しくなります。信仰的な会話も交わしたのではないでしょうか。ああ、ロマン・・・♪



水標橋(復元)

水標橋(復元)

解説板

解説文

奨忠壇


少し進むと奨忠壇。奨忠壇公園はこれがあるからの名称です。

奨忠壇とは、閔妃暗殺時に一緒に殺された犠牲者たちの慰霊碑。

実行犯はもちろん日本人ですね。

宮殿に押し入って殺害したのですから、閔妃だけが死んだのでなく、他にも犠牲者がいたということです。守衛や護衛、宮殿付きの侍女たちなど。胸が悪くなるような光景が浮かびます。今も碑から血煙が登っているように見えますけどね、私には。



奨忠壇

解説板

解説文

奨忠壇公園

東国大と銅像


奨忠壇公園には銅像も。「義士」って書いてあるから、日本からの独立を目指して運動し、そして死んだ人なのでしょう。

バックには東国大と青空。どこに行ってもあるように思う「義士像」。

以前明洞を歩いていて、銅像があったから見ていたら、日本の銀行に爆弾持って入って自爆した人とか書かれていて、その場にフリーズしたことがあります。

ソウルはハンを刻む街ですね。この国と付き合っていくのに、ただ忘れようとしたり、時間が解決するだろうと安易に考えたりするのは・・・、間違っていると思います。



義士像

石碑

休憩所から


公園内の休憩所を通りかかったら、聞き覚えのあるメロディーが。耳を傾けてみると・・・、これ、ゴスペル!

「あなたは愛されるために生まれた」を子供が歌っているヴァージョンで流していました。

なんと、やっぱりクリスチャンの多い国。無垢な歌声に、自分でも知らないうちに涙が頬を伝っていました。この赦しの精神でなければ、歴史問題は解けないのではないかと。心のどこかで一筋の光を感じておりました (ToT)



休憩所

新羅ホテル

公園内の川

新羅ホテル


公園を一旦出て、南山のトンネル方向へ。左手に見える新羅ホテルは、伊藤博文を祀った伊藤神社の跡だと読んだことがあります(どこに書いてあったか思い出せないけど)。

南山は、425年前の壬申倭乱の時も日本軍が陣を布いていましたが、日本が朝鮮を支配した日帝時代にも、日本軍が駐留していました。

地理的条件による一致とも考えられますが、不思議と符合しているという感じも受けます。またそれを見た朝鮮の人が「歴史は繰り返す」と受け取ったとしても無理からぬことだと思いますし。



伊藤神社跡

街路樹

柳寛順像


野球場を横目に、坂道を更に上っていくと、ビュンビュン走り抜ける車道の向こうに柳寛順(ユ・グァンスン)像!!

これ見たさに坂を上りましたが、これ以上は近づけなさそう。

信号のない三角州みたいな所に建てられていて、車が停まってくれそうな気配は全くないので。遠くからズームで撮影。逆光でよく見えませんが、凛々しい姿です。

柳寛順は民族運動のヒロインですね。民族運動と言えば聞こえはいいけど、当時はイコール反日闘争ですから、彼女の姿を目にするたびに、韓国人は憎っくき日本を思い出すのでしょう。でも彼女はクリスチャンだったのだから、赦しの先頭にも立ってくれませんかね。それがあれば違うんだろうにと思うんですが。柳寛順が信仰について語ったものとかは残っていないんでしょうか。



柳寛順像

柳寛順像

奨忠壇公園


汝矣島にも行ってみよう☆


国会議事堂


それでは次は雰囲気をガラリと変えて、国会議事堂へと参りましょう。議事堂と言っても入れないんですけど(予約しないとダメ)。

いつか国会見学もしてみたいです。できれば板門店にも。今まで機会がなく、私の周りにも行ったことがある人いないんですが、気になっていて。どんな所なんだろう。



純福音教会


汝矣島(ヨイド)は国会議事堂やテレビ局、大企業の本社などがある所なのですが、そこに世界最大級のプロテスタント教会もあります。

有名だから一度見てみたかったんですが、それがこちらのヨイド純福音教会。周りの建物は別のところのものかと思っていたら、同一敷地内にある施設でした。



大聖殿


こちらが大聖堂。正面で写真を撮っている一団がいました。地方から来て本部教会前で記念撮影していると見受けました。

純福音教会というと、チョー・ヨンギ牧師がよく知られています。ペンテコステ派だから聖霊を受けるよう、熱く説教が伝えられているんでしょう。

自分の生活の場に戻っても、その熱さが消えないようにしていくのが大切なのでしょうね。



巨大十字架

敷地案内図

大聖堂

寄贈した公園

ヨイド広場に行きたくて


ヨイド広場という所にも行きたくて、国会議事堂と逆方向にトコトコ。1970~80年代に、多くのリバイバル集会が開かれ、それが韓国のリバイバルにつながったという噂を聞いています。

だけれどヨイド広場は横にものすごく長い公園で、向かって左側は木々が生い茂る自然公園。広い場所はもっと右側に向かって歩いて行かないとダメみたいですね (~_~;)



ヨイド広場

周りの高層ビル

案内図

ヨイド広場


やっと広い所に出ました。私がイメージしていたヨイド広場は、こちらの文化広場のことだったようです。

太極旗が掲げられ、その下に戦闘機が野外展示されていますね。

ちょっと軍事的な臭いがしちゃってますが・・・。

こちらの広場で1984年5月6日、来韓していたヨハネ・パウロ2世によって103人の列聖式が行われました。1984年の列聖式にも、2014年の列福式にもそれぞれ当時のローマ教皇が来て直接式を執り行っただなんて、破格の扱いではないでしょうかね。

普通列福式はローマ教皇の代理が来るだけでも大騒ぎです。1984年の教皇来韓は、列聖式もですが、韓国カトリック200周年を記念する意味もあったようですが。1839年~1925年までの殉教者79人と、1968年の24人で計103人が、栄光の冠を受けました。天国で受ける方が早かったでしょうけれど☆



ヨイド広場

戦闘機

列聖式が行われた

KBS


地下鉄駅に向かいながら、KBSを見つけて横道へ。日本のNHKみたいなテレビ局です。韓流ドラマ好きな友人によると、年末に韓流スターはテレビ局をはしごして、各局の授賞式に出るんだとか。それがここなんですね。

一日終わったなーと、ホームに下りていくエスカレーター(↓)に乗ったら、これまたひどいガタガタ具合で、振動で振り落とされるじゃないかと思うほど (;'∀')マジカー

両手で片側の手すりを掴み、へっぴり腰で下りました。こういう細部に、いろんな水準が出ちゃうもんなんだなと思いました。韓国、頑張って! いやいや、それなら私こそ、水準が露呈しないよう頑張るべきですね。そんな自戒を込めて、お疲れさまでした♪



ヨイド

エスカレーター



天使の梯子


美しい「天使の梯子」を見るためには、
そこに、厚い雲がなければならない。

と言った人がいます。天使の梯子とは、雲の切れ間から差す太陽光が筋状に広がって見える現象。

厚い雲があってこそ美しいものが生まれるというのは、どこか暗喩的です。光を遮断するような厚い層の間から、一条の光が差すとき、そこに奇跡な美が生まれる――。

ならば歴史の中で人間も、遮断するような困難の切れ間から、一筋の光を照らすべく、答えを模索すべきなのではないでしょうか。言い換えるなら、歴史問題の雲を突き抜ける、新しい光です。

天使の梯子も好きだけど、歴史の空にそんな美しいものを見たいです。いつか見られる日が来ると信じて、旅を続けてゆきましょうか (*´ω`*)






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