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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ソウル松山キリシタンの旅 3


今日は韓国在住のDさんの引率で、西大門刑務所跡へと向かいます。刑務所歴史館という所に前々から行きたかったんですが、よく知っている人にガイドしてもらう方が受けるものが多いと思い。よろしくお願いします~(*^^*)



西大門独立公園


地下鉄駅「独立門駅」で待ち合わせると、道を渡ったすぐそこが西大門独立公園。公園の一角に西大門刑務所跡である、刑務所歴史館があります。

1908年、日本が京城監獄として建てたのが始まりで、朝鮮半島で初めての近代的な監獄だったそうですが、威張れたことじゃありません。日本からの独立運動をする人たちをぶっ込んだ訳ですからね。

今日もダークツーリズムの臭いがしてきましたが、こういうものだからこそ見なければ学ばなければと思います。それにしても塀、たかっ!



刑務所歴史館


こちらが刑務所歴史館の展示館入口。意外と人多いです。

日本人の姿は自分たち以外には見えないけど。

展示館の建物は保安課庁舎だったもの。

実際に使っていた建物をそのまま使っているから、展示もさることながら、雰囲気が伝わってくるのがすごいです。重いというか (;´Д`)



展示館

見張り台

炊事棟

案内図

展示室


展示館に入ると、まず西大門刑務所の概観を記した資料やパネル解説があり、そこから歴史的背景、どんな人が収容されたのか、どんなことが行われていたのかなどの説明へとつながっています。

入ってすぐの所に「自由と平和に向かう80年 1908-1987」と書いてありますが、ん?日本が統治したのは1945年までですよね?

日本が敗戦して撤収してからは、ソウル刑務所、あるいは拘置所として使われて、今はそれらがどこかに移転したのでここがミュージアムになったのです。だからその期間の運用についても解説しないとフェアじゃない気がしますが、これ如何に?

1945年から1987年といえば、韓国は民主化運動、学生デモなどで大変だったはず。その頃の民主化運動家もここにぶち込まれたじゃないでしょうか。1988年のソウルオリンピックを機に、そういった施設は郊外に移転されたんでしょうけど、それまでに流れた32年の年月を忘れるのは良くないですよね。

刑務所歴史館が、日本統治時代に恐ろしい拷問が行われた場所として、それを知らせる目的で開館したものであれば、そこにだけフォーカスを当てても致し方ないかもしれませんが、それでももう一言あってもいいんじゃないですかね。

「ここにはその後、韓国政府が自国の民主活動家を収監し迫害しました」とか。日本人が言うなと叱られそうですけど。



1908-1987

日本の官報

1945年までのこと

1936年の白地図

展示品

殉国義兵長

安重根


収容されていた人々


ここに収監された独立運動家約5000人の写真が壁全面に貼られた部屋。皆正面を向いているので、こちらを睨んでいるように見えます。

こんなことしちゃいけなかったのにと、痛ましい気持ちになりますが、日本人としては「何をどうしろと?」という考えも浮かびます。

謝罪でしょうか? 補償? それらは十分でないとしてもやっていますよね。それでもなお求められている姿勢や、払えと言われているものがもっとあるような感じを受けます。韓国人は一体、日本人に何を求めているんだろう? 底なし沼のような溝が目の前に現れたような気がしました。



収監された人々

収監された人々

収監された人々

柳寛順


展示室内に、死刑場の死体収拾室の模型が作られていて、そこに柳寛順(ユ・グァンスン)の写真も掲示されていました。

柳寛順は拷問が原因で18歳で獄死。処刑されたのではないけれど、殉国の烈士であることは間違いないですね。

柳寛順の故郷、天安にある独立博物館に行ったことがありますが、見るのに半日はかかるほど大規模で、柳寛順関係の展示が多かったです。

柳寛順は、独立運動のヒロインであり、殉国烈士のアイコンと言っても過言ではありませんが、本人はそれをどう思っているんだろう・・・? 柳寛順はクリスチャンだったから、闘いよりは平和のヒロインになりたいのではないかと、勝手に想像してみたりして。

それなら今、平和になった今ならば、お互いが手をつなぐところにアイコンとして使われたら良いのになと、思うんですが。もしかしたら柳寛順自身もその方がうれしいかもしれないなと、これまた勝手な想像なんですけど☆



死体収拾室

地下の展示


地上階の展示は解説パネル中心の学習モードなんですが、地階に下りると一気に体感モードに。

拷問の様子を再現する実物大人形に、部屋を覗くたびぎょっとさせられます。

体験者の証言映像や拷問に使われた道具などが展示されていて、いくつかは体験することもできます(さすがに「爪刺し拷問」は体験できないけど。体験しなくていいか...?)



拷問について

拷問室

爪刺し拷問

爪刺し拷問解説

三尺牢?


ふと目に留まったのが、こちらの木組み。これ見覚えがあります。三尺牢(さんじゃくろう)ですよね? 明治時代に浦上キリシタンが入れられていた。

そう、この体を曲げないと入れないような狭い牢に人を入れて、何日も放っておくのが、この狭い牢の拷問。体を伸ばすことはおろか、体勢を変えることもできないので、体液の循環ができず、内臓など体内の器官が衰弱し、うめき苦しんで、ついには死に至るのです。

明治の日本でこの拷問で殉教した信徒がいるくらいなので、他でもやっててもおかしくないですが、ちょっと違うのは、日本では木をこのように横に組んだのではなくて、木材の角が体に当たるよう、木は90度傾けて組まれていましたね。だから死ぬまでになったのです。ここでは苦しめるための拷問道具だったようですけども。

それにしても日本が、キリシタンに対してだけでなく、朝鮮でも同様のことをしていたというのは、不思議ではないけど驚きでした。共通項を見つけて、「うわ、やだな」と思う感じです。いつも闇の側は似たような方法を使うというのも・・・。



箱拷問

解説板

拷問の記録

体験コーナー

地下独房


薄暗い地下独房が並ぶエリア。覗くとまた人形があるんだろうと思って近づくのですが、人形があった場合より、なかった場合の方が何だか恐ろしいです。

「どんなことが行われたんだろう」と考えてしまうからでしょうか。

拷問の人形については、以前は爪はがしたりするのとか、いろいろあったようですが、それをうかがわせる拷問道具の展示になったようです。

子供たちも見に来ますからね。拷問の恐ろしさを感じさせ、日本に対する憎悪と恐怖を育てることが、本当に良い歴史教育なのかどうか。日本人からは言いにくいところだけど。。



地下独房

人形

立ったまま閉じ込める

体験できます

展示館を出て


展示館を出て、獄舎の方へ。晴れてますが風が冷たいです。クリスマス前のこの時期、ソウルは当たり前に日中の最高気温が零下。

最近見た天気予報では、ロシアのウラジオストクが最低気温マイナス3度で、ソウルはマイナス13度とか言ってました。ロシアより寒いって・・・((+_+))シバレル



獄中日記


獄舎は中央舎を中心に3棟つながっていて、そのうち2棟を見学できます。まずは中央舎で資料を見ましょう。

展示品の中に「獄中日記」と「白凡逸志」が。「白凡逸志」は韓国の宝物に指定されている本ですね。著者の金九は有名な独立運動家で、この人の号が白凡。

収監者の遺物が展示されていると書いてあったけど、「白凡逸志」は金九の自叙伝、もう一つの「獄中日記」は他の人が他の刑務所で書いた物ですね。当時このような人たちが活動して、逮捕拘留されていましたということを見せるため、一種の関連展示も含まれているということですね。



獄舎内


中央舎を軸に90度の扇型に3つの獄舎がつながっていて、獄舎内は一目で端まで見渡せる構造。監視と統制がしやすいように作られているのが分かります。

各部屋の上にもう一階あって、そこから監視役が目を光らせていたようです。上から見られているって、威圧的な感じですね。

人を人と思っていなかった様子が、体で感じられました。



監獄内

部屋

女性の姿

等身大人形

外には雪


一旦外に出て、隣の塔に行こうとしたら、日陰に雪が残っていました。昨晩知らないうちに降っていたんでしょうか。

入れられていた人たちも寒い思いをしたんだろうなと。

人が忍耐力を試されるって、痛さだけではないですよね。怖さに、寒さに、ひもじさに、自尊心を傷つけられるという精神的な辛さに・・・。

日本の支配というだけでなく、そういうものとも闘っていた場所なんですね。彼らを英雄と呼ぶ気持ちは理解できます。



トイレなど

排出口

獄舎内


もう一つの獄舎に来てみました。似てはいますが、こちらは収監者の一人ひとりの顔がよく見えるような展示方法になっています。

ここを含む扇状の3棟の獄舎は、1919年に起きた3.1独立運動で収監者が急増したため1922年に新しく建てられた建物だそう。

タプコル公園に集っていた人たちが、ここに収監されていたんでしょうね。一人ひとりの顔が、少しずつ見えてくるような感じがして、それが心にジャリッとしたものを残します。知るべきだと思っていても、あまりに知ってしまうとダメージを受けそうで、それを避けたい気持ちが働きます。



上から監視


上からの監視も相変わらず。人形だと分かっていても、何となく腹立たしいです。上から見られるって嫌なものですね。

これが常時なんだから、慣れるか諦めるか・・・。会話もままならなかったでしょう。

収監者たちに労働もさせていたので、その展示も。解説パネルの円グラフによると、1日の労役時間は10時間30分で、食事時間は30分だったよう。もちろん無給です。



一人ひとりの展示

牧師さんも

労働

1日の円グラフ

屋外展示


建物内の見学を終えて、屋外展示へ。

ハンセン病者を隔離して入れていた所から見たら、北漢山がとてもキレイに見えました。

ここに入れられていた人たちが「キレイ」だなんて見ていられる心境だったかは分からないけど、慰めにはなったのかもしれません。

獄舎も獄舎だと知らずに見たら、レンガ造りの重厚な建物でいいなーとか好感持っちゃうと思います。いい環境といい建物を、人が暗い記憶の宿る場所にしてしまったんですね (´;ω;`)



獄舎

四角池

追慕碑解説板

追慕碑(追悼碑)

死刑場


刑務所敷地内の左奥の角に、物置小屋にも見えそうな簡易な造りの建物があり、中に入ったら、こんな風(←)になっていました。

ここは死刑場。西大門刑務所をはじめ韓国全土で死刑宣告を受けた人の死刑が行われた場所です。

木造のこんな建物だったなんて・・・。執行する場所が舞台のようになっていて、見る人たちの席が設けられています。舞台袖にカーテンまであって、小さなショーでも見せるかのよう。ふいに襲ってきた衝撃に、反応ができない感じです。

ここでは絞首刑が行われたようですね。横手に回ると、吊り下ろされた遺体を回収して、上ってくるための階段がありました。これ設計した人、何考えてこんなに効率的にしたんでしょう。無駄な作業を省くような、効率的なところがゾッとします(やめようよ、そういう効率考えるの;;)

建物の斜め裏手には屍躯門(シグムン)という、遺体搬出口も。1992年に発見されて40mほど復元したと書かれているので、誰かが埋めて分からなくしてたんですね。恐らく処刑したことが知られると牢内で暴動が起こるかもしれないから、秘密裏に運び出すための隠しトンネルを掘っていたのでしょう。こういうのも効率的で・・・、寒気がします。



死刑場

遺体を運び出す階段

屍躯門

屍躯門(シグムン)

運動させるため


敷地内の中心部に、半円形に、ドミノ倒しみたいに並んでいるレンガの壁は、収監者を運動させた場所。

労働させているから、病気にならないよう、運動もさせたんですね。隔壁場(キョクビョクジャン)というみたいです。

壁が扇の中骨のように並んでいるのは、やはり監視しやすくするため。壁と壁の間が人一人分の幅なのは、収監者同士が運動中に話をできないようにするためだそう。よく考えてありますね。そこが嫌なんですけど。ちょっとドイツの強制収容所を思い出しました。

ここで刑務所歴史館のツアーは終了。案内してくれたDさんにお礼を言って解散です。一人で来ていたら、ぼーっとして見るべきところを見逃していたかもしれません。感謝を胸に、これからも歴史散策を通しての気付きを記していきたいと思います (o^^o)アリガトデスー



隔壁場

解説板

獄舎

刑務所跡


Nタワーへと向かいます☆彡


一人で


さてここからは一人です。まだ午後はたっぷりあるので、一度は行ってみようと思っていたNタワーへ参りましょ。

地下鉄「明洞駅」で下りて、東へ。大きな交差点に建つファッションビルの広告の横に、十字架が光っています。そこにも教会があるようですね。韓流スターの笑顔の横に赤い十字架だなんて、韓国らしい風景です。



明洞の街

赤い十字架

会賢洞


南山ケーブルカー方向に曲がった所の地名が会賢洞。ここが425年前、前野長康陣所だった跡ですね。

前野長康は秀吉古参の家臣の一人であり、墨俣一夜城の築城にも関わった武将。私はキリシタンだったと考えています。

壬申倭乱で功を挙げたお陰で加増されているんですけど、ここでどんな気持ちで過ごしていたんでしょう。

前野長康はここにいた時から数えて3年後の1595年、秀次事件に連座して自害。子孫からは5人のキリシタン殉教者が出ています。


朝鮮出兵とキリシタン


秀吉の命で行われた朝鮮出兵では、多くのキリシタン大名・武将が朝鮮半島へ渡って来ています。中には現地の土になって帰国できなかった者も。ざっと名前を挙げてみますと以下の通り(後で受洗した者、キリシタンだったが棄教した者を含む)です。

小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、内藤如庵、天草久種、天草種元、大矢野種基、大矢野種量、栖本親高、前野長康、五島純玄、黒田官兵衛、黒田長政、大友義統、伊東祐兵、織田信秀、蜂須賀家政、毛利秀包、毛利高政、明石掃部、寺沢広高、大谷吉継、牧村利貞・・・

また小西行長が従軍司祭としてセスペデス神父を連れて行っていて、これが記録に残っている中では、最初のキリスト教宣教師の朝鮮入りであることも特筆したいところ。日本のキリシタン史は、実は朝鮮とがっちりリンクしているんだよということです。ねね、ちょっと面白いでしょ (^^)?




会賢洞

会賢洞

南山オルミ


南山のケーブルカー乗り場までは、南山オルミという、エレベーターみたいなケーブルカーが運行しています。無料なのに結構いい車両で、これだけでも行楽気分が味わえます。

乗り場には「韓国はこれから羽ばたくぞ」みたいなオブジェ。南山にNソウルタワーが爆誕した時の市民の興奮が今も漂っているよう。

明洞方向には教会の姿も見えますね♪





オルミ車内

教会

眺めも良し

ケーブルカー


南山ケーブルカー(日本でいうロープウェイなんですけど^^;)は有料ですが、これを徒歩で登ったら大変なこっちゃという感じだったなので、乗って正解でした。今回は片道を。下りは徒歩にしようと思っているので。

必ずしもケーブルカーに乗らなくても、反対側からバスで来ることもできますし、気合いを入れて全部徒歩でというのも可能。時間と体力に合わせてトライすると良いのかと。



Nソウルタワー


ケーブルカーを下りてからも少し登り、Nソウルタワーの足元に到着。八角亭とかあって、韓国っぽい感じも出ています。

ここでしばしお祈り。寒いけど(標高上がると気温下がるの忘れてた)。

425年前、漢城(ソウル)を占領した日本軍が集中したのは南部の地域。それは鍾路から北の王宮が略奪や放火に遭って建物が失われていたからで、駐留する建物がなかったからというのが理由の一つ。

もう一つの理由としては南山という山があり、背後に漢江が流れるなど、戦略的に有利な条件を備えていたからです。そして時が流れて今からおよそ110年前、日本が朝鮮への内政干渉を強めていく過程で、日本が統監府を設置したのは、かつて日本軍が陣所を布いた、南山の倭城台の地でした。



ソウル市内を遠望


この南山の山腹には、日本の 憲兵隊司令部や朝鮮総督の官邸が置かれ、やがて日本人の手によって、神社や神宮、本願寺という精神的シンボルも建立されるようになりました。

110年前の日本人が、壬申倭乱の頃のことをどのくらい知っていて、どの程度意識したのかは不明ですが、一致点が多いのは事実です。地理的に有利であるなどの理由は挙げられるとしても、この反復を既視感をもって朝鮮人が見ていたとしても無理からぬことだと思います。


負の系譜と日本の盲点


つまり、壬辰倭乱ー閔妃暗殺ー3.1独立運動ときて、従軍慰安婦像につながる系譜は、日本が行ってきた蛮行が、地理的にも「歴史はくり返す」という言葉の通りだったために、より一層印象付けられ、朝鮮人の心に刻み込まれることとなったということです。

その点において(そもそも他国を侵略しちゃいけませんが、それ以外の点でも)日本に原因があることを再認識しないと、自分たちに責任があることを理解できず、朝鮮人のことを飛びぬけて恨み深い民族だと誤解してしまう危険性があります(実際私がそうかもしれない;;)。

大体二度も占領され蹂躙されて、それが似たようなシチュエーションであったならば、一方をもって他方を想起するのは当然の理。そんな負の歴史を繰り返すことをしておきながら、部分だけ解こうとするから、解けるものも解けるはずがありません。

その上、「は、謝罪と補償? もうしたでしょ」という態度が、更に韓国人の心を傷つけているのでしょう。つながっているものを一つとして見、一つの問題として認識しなければ、同じフィールドに立って議論することができません。まずこれを変えなくては。日本人には抜け落ちている視点があるんだなと、寒風吹きすさぶ南山で悟りました。





ソウル市内

解説板

解説板

南山下り中


ケチる訳ではないのだけど、Nソウルタワーに登る気になれず、南山を下ることに。お祈りはしたから、いっかなーと。

道端に雪が普通に残っています。これ春まで溶けないんだろうな。

日韓関係の雪は春が来ても溶けないけどね、なんていうブラックな発想はやめて、とりあえず下りましょう。足元注意です (-ω-)/



下り道

南山冬景色

巨樹

コンビニでお弁当


そういえばお腹すいたなと思っていたら、視線の先にコンビニが。観光バスが乗り付ける駐車場に、いくつかお店がオープンしてました。

お弁当買って温めて、給湯器のお湯でお茶淹れて、店内のイートインコーナーでモグモグ。すっかり現地人です。ヘルシーなお弁当がないことには閉口しましたが、動けるエネルギーがもらえたら感謝ですね☆


冬枯れの南山


多少しゃべれるお陰で店員さんと話して気分転換もできました。

誰とも会話しないと、段々孤独感が溜まってくるので。

店員さんに教えてもらった通り、冬枯れの道をテクテク。この道をずーっと行くと安重根義士記念館が見えてくるそうな。

時折バスが通るのと、たまーに登って来る猛者がいる以外、基本誰もいないので、30分以上一人で賛美歌を歌いながら下山。考えてみたら、この山、425年前の日本人たちも登ったでしょうね。少なくとも武将クラス以上は皆。だってここからなら市内を一望できますから。

建物が燃えてしまったなら尚更、南山からしか地形を見て戦略を立てることは無理だったでしょう。見れば、山腹に所々遺構らしきものが。どの時代のものか分からないけど、いろんな時代の物が眠っていそう。ちゃんと発掘調査すれば、日本に関係する物も出てくる可能性があるんじゃないでしょうか。

さっき挙げたキリシタンたちが、きっとこの山に来ていたんだろうと思うと、徒歩で下りるルートを選んで正解だったなと。賛美したのも良かったかもしれません♪



バス

山腹

素月の碑


随分時間がかかったので、道間違えたかと思いましたが、素月の碑を発見して安心しました。ここが南山公園で間違いないようです。

この辺まで下りてくると、車も多くなり、交通に気を付ける必要が出てきます。人も歩いていますし。

南山公園は広大なのですが、こちらのエリアには南山図書館と2人の人の銅像があります。それは朱子学を集大成した学者、退渓李滉(テゲイファン)と・・・


案内図

退渓李滉

南山図書館

茶山!


茶山の像 (≧▽≦)!!

茶山(タサン)とは、朝鮮時代後期の実学思想家で「牧民心書」の著者、水原華城の設計者で挙重機(クレーン)の発明家・・・の、チョン・ヤギョン(丁若鏞。1762~1836)のことです。

チョン・ヤギョンが本名で、号が茶山。別名は「朝鮮のダ・ヴィンチ」! クリスチャンで、それがために流配生活をしたことも。弟と甥は殉教者です。

詳しくは茶山遺跡地を訪ねたコチラ⇒「続・韓国巡礼 part1」をご参照あれ。私の茶山愛がほとばしっています☆彡



茶山像

安重根義士記念館

南山公園

オブジェ

安重根像


茶山像の横から階段を上り、小公園を突っ切ると安重根(アン・ジュングン)義士記念館が見えてきます。でも裏手なので、入場するには表に回らなければなりません。

表に回ると、燦然と輝く安重根像が。輝いているのは夕陽のせいですが、スポットライト浴びてる感はあります。

周りに建てられている石碑はすべて、安重根の書や言葉を記したものですから。もはや安重根パークと言ってもいいのでは。

しかし・・・石も立派で書も立派。だから刻んで建てるのはいいと思いますが、こんなに林立させる必要があるでしょうか。これくらい英雄視されているのを目にすると、かえって「うむむ」と疑問に思ってしまうのは、私の反骨精神のせいでしょうか。



安重根義士記念館

安重根の書

安重根の書

最後の遺言

安重根義士記念館


とりあえず中に入ってみましょと、入口に向かうと、地階にある入口までのスロープにも、延々安重根の書、書、書・・・(;゚Д゚)

ここまで安重根づくしにするのは、相当好きだからだと思いますが、愛と尊敬が一定の線を超えている感じも。

安重根はカトリックのクリスチャンだったから、信仰的な言葉もありますがね。「敬天」と書かれたものが。でもそれ以外は違った波長かなぁ。



独立

安重根の書

敬天

安重根の書

エントランスの安重根像


中に入って行くと、受付の人にどこから来たのか聞かれ、日本だと答えると、最初に15分ほどの映像(日本語版)を見てくださいと言われました。

丁寧な対応で、日本人だからというアウェー感はゼロ。まあ、ここから始まるんでしょうけどね。安重根は日本の統治に反対して、伊藤博文を暗殺した人なんですから。

映像はコチラ↓(ほんの一部ですけど)





安重根

映像

映像

安重根

展示室


重ーい空気をまとって映像室から出て、「地球の重力強くなった?」と思いながら展示室を回り始めました。

解説は安重根の家門(家柄や家族、親族関係)から始まります。家門から始まるってところが、韓国っぽいですね。家がとっても大切なのです。

安重根の家門は、15人もの抗日独立運動家が出ている「名門家門」だということです。



断指

韓日修好条約

乙巳条約

成長過程

安重根義士とカトリック


「安重根義士とカトリック」という解説があり、ここでは信仰的な側面が語られています。

安重根の一家はカトリックのクリスチャンファミリーで、安の洗礼名はトマス。

カトリックだけれど幼児洗礼ではなく、17歳の時洗礼を受けました。洗礼を授けたのはパリ外国宣教会のジョゼフ・ウィレム神父。神父と一緒に伝道活動もしていました。一緒に活動しながら、大学設立などのビジョンを持っていたようですね。


キリスト教徒としての安重根


これはここにも書いてないし、青年期よりもずっと後のことなんですが、安は処刑を待つ旅順監獄で、自分の主任弁護士だった日本人に、クリスチャンになることを勧めたことが伝わっています。この弁護士とは腹を割って話をし、肝胆相照らす仲となったようです。互いにキリスト教徒となり、「天国で共に語り合おう」と言ったとか。

安の信仰は生涯変わらず、妻への最後の手紙では、自分の息子は聖職者になるようにと書きました。青年期に持った信仰が人生を支え、その先の天国までを仰ぎ見させていたのでしょう。展示室の解説は若干簡素で、キリスト教徒としての安のことを、もっと掘り下げてくれたらいいのになと思いました。



解説

ウィレム神父

当時の写真

教会の人たち

第2展示室


展示室は地下1階から地上2階まで3階に分かれて、第1~3展示室があるのですが、第1展示室は準備体操、第2展示室は助走、第3展示室が全力疾走&フィニッシュという感じ。

先程までは、安の家族構成や青年期に受けた影響の説明でしたが、第2展示室に入ると、ちょっと雰囲気が変わります。

海外に出て抗日運動を始め、義兵闘争をするなど、独立運動家としての本格的な活動がスタートし、その分ちょっと暴力的な臭いも漂ってきます。独立運動というのは、「闘い」ですからね。

その中でも特に凝った演出で解説されているのが、断指同盟。1909年の初め、安は11人の同志らと国家のために身を捧げて一致団結して国権を回復しようと、指を斬ったのです。その血で大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて決起を表明。

さっきから書の横に捺されている手の指が、一本だけどうも短いなと思っていましたが、そういう意味だったんですね。驚きとともに・・・何と言っていいか、人によっては「引く」でしょうね。私は「そういう形を取らなくても良かったんじゃないかな」と思ってしまいます。正直怖いですし。



同義断指同盟

指・・・

安の左手

「大韓獨立」(複製)

ハルビン


一つ階を上がって第3展示室に入ると、暗殺のシーンでした。 もう既に全力疾走始まってたんですね (゚Д゚;)

1909年10月、安は伊藤博文のハルビン訪問に際し、仲間と計画して狙撃。これを解説板では「義挙」と言っています。

順路の左手が実物大人形による再現で、右手にはその関連解説。伊藤博文の子孫は見に来ない方がいいだろうなと思うような内容です。。



暗殺計画

その日のハルビン駅

「義挙」の現場

小銃(複製)

報告書

「義挙」資料

伊藤の罪状コーナー

「伊藤の罪状」映像

裁判


法廷闘争の様子も実物大で再現されています。ボタンを押すと、音声と共にこれらの人形が動き出すという入念な作り。

獄中の独房も再現されていました。そこで自叙伝と「東洋平和論」を執筆したそうです。死を前に泰然とした態度だったことがうかがえます。

安の母親も、息子の義挙を聞き、天晴れだと言い、死刑判決も受け入れたのだとか。この母にしてこの子ありみたいなことが書かれています。



東洋平和論

安応七歴史

この母にこの息子

安の遺言

殉国


安の処刑は「殉国」と表現されていました。周囲の壁には、各地に建てられた安の顕彰碑や墓などが。

私はこの中で宮城県の大林寺だけは行ったことがあります。旅順監獄の看守だった千葉十七という人物が、安と心の交感を持ち、処刑の前に安が千葉に書を送ったのですが、それを刻んだ碑がこの寺にあるからです。

安が「為国献身軍人本分」と書き、署名、左手の手形を捺したその書は、遺族が安重根の生誕100周年(1979年)に際してこの記念館に贈られました。その返礼として、大林寺には遺墨を刻んだ碑が建てられたのです。日本を憎んだはずなのに、遺墨を日本人に贈ったとは、何と奇妙な、いえ、何と意味深いことでしょう。

聖書は「罪を憎んで人を憎まず」と教えるけれど、正にそれを表すような行いだったのではないかと思います。また天がそのような「赦し」の機会を安に与えていたことも、とても感動的なことではないかと。



ロシアにある記念碑

宮城県の大林寺

韓国に作られた墓

教会での追悼ミサ

企画展示室


最後の企画展示室には安の書がズラリ。「為国献身軍人本分」を探してみたら・・・、ありました!!

でも複製ですね。この本物見たさに来たと言ってもいいのにぃ。。(≧◇≦)

よくよく見ていったら、複製ばっかりで、真筆は2つしか展示されていませんでした。本物持ってるくせにケチー。

安重根の真筆とされるものは57点あり、そのうち26点が国の宝物に指定されているのだとか。貴重なのは分かりますがね、安重根の記念館なんですから、もう少しサービスしてもらえないでしょうか。



為国献身軍人本分

独立

真筆

真筆


安重根義士記念館を出て


公園へ


記念館を出て広い公園の方へ。市庁方面が見渡せます。昔はこの山腹に何があったんだろう? 日本関係の施設とかあったのかもしれませんね。

安重根義士記念館の他にも、屋上にUFOが不時着したみたいな、ソウル市教育研究情報院など、公園内には市の文化施設がいくつも建てられています。


白凡広場


南山公園がこんなに広いとは知らなかったなと思いつつ、階段を下って白凡広場へ。白凡(ペッポム)は民族運動家。

本名は金九(キム・グ)で、号が白凡。あちらで手を挙げている人でしょうね。金九もカトリックのクリスチャンなんですが、私の中ではなんとなく安重根よりも遠い感じ。

安重根は、日本を憎んだかもしれないけど、東洋の平和を願って、最後には日本人に書を贈るなどしたけど、金九は・・・。



ソウル市教育研究情報院

白凡広場

お寺もある

金九像


怒って衝動的に日本人殺したり、自分と考え方の違う韓国人を殺害させたりしていますからね。

昭和天皇の暗殺計画など各種テロも指示しましたし。

そんなことをしておきながら、ソウルのど真ん中に晴れやかな笑顔の銅像が建てられているのは、大韓民国臨時政府のトップ(今でいう大統領)などを務めたからでしょうか。

だけど最後は李承晩と対立して、暗殺されてしまったそうです。閔妃と同じですね。やったことと同じことを受けたのは。くわばらくわばら。そう言えば、安重根に射殺された伊藤博文も、英国公使館を焼き討ちにしたり、塙保己一の息子など2人を暗殺していますね。初代内閣総理大臣になるより前の、若い頃のことですけど。

自分の思い通りにならないことがあっても、悪い企みには加わらず、残虐なことをしてはいけませんね。人生の栄華の頂点で、それが自分への刃となって飛んでくるかもしれないから。くわばらくわばらです(ばーちゃんかっ)。



金九像

顕彰碑

トラ

李始栄(イ・シヨン)像

天から光が


街を眺めながら下っていると、目の前の雲がみるみる割れて、空から眩しい光が。

何これ・・・!?

夕暮れのピンクも重なって、得も言われぬ美しさです。

天変地異でも起こったかと思うくらいの、突然の、そして神々しい天のショー。神様の指で直接描き出されたが如く思えたので、見逃しちゃいかんなと凝視。気持ち的には呆然としながら。ほんの5分ほどで、いつもの空に戻ったけれど。

昨日天使の梯子のことを考えていたから、それを上回るものを見せてくれたのかな? 天使の・・・エレベーターみたいでした。神様は最高の芸術家ですね。旅の途中に良いものを見せてもらいました (●´ω`●)



金庾信将軍像

草ゆれる


南山公園

南大門市場


南山公園を下りきって、地下鉄駅に向かう予定が・・・気付いてみたら、南大門市場って書いてある ( ゚д゚)ハッ

ダメじゃん、もう。すんごい遠回り。。
体力尽きかけてるところで痛恨のミス。人ごった返してるし。泣くわ。



南大門


人の流れに押されるようにして、南大門まで来てしまった。どうするべ。

ちなみに南大門は国宝第一号! 正式な名前は崇礼門(スンネムン)だよ。って、頭の中で解説よぎってもテンション上がらんし;;

一つだけ、この状況を逆転できる方法があるんだけど。それはこの先にある日本軍陣所跡を見てくること。それで巻き返しをはかるか・・・



南大門市場

南大門

人々

明石右近がいた


うーん、無理!(+o+)

明石右近の陣所跡は、この道を渡ったビル群の辺りなんですが、南大門周辺の交通はほんとひどくて、道渡るなんて大変すぎ。

ここは遠望で我慢しましょう。明石右近は、明石掃部の息子か一門の者だと思いますが、キリシタンかどうか分からないので(ちょっと言い訳)。

だけど・・・なんでしょうね、文禄の役が終わって帰国して、次の慶長の役が始まるまでに受洗した人が何人かいます。例えば蜂須賀家政とか。以前はキリシタンの話なんて馬鹿にしてたのに、戻ってからは真摯に聞くようになり、洗礼を受けたのです。

この時代の人は、戦場は慣れていたはずですが、異国での、こんな極寒のアウェーの中での戦闘は未経験だったろうから、堪えたのかもしれません。人生について、来世について、考えずにはいられなかったんだろうなと。

その先に神様という答えをしっかり見いだせた人は幸いだったんでしょうね。逆に永遠なものを信じられなかった人にとっては、この上ない虚無の世界だったろうし。人生の終わりをバッドエンドにしない知恵を持ちたいものだと、押し寄せる人波の中で考えておりました。



陣所跡

南大門市場

墨井洞


結局南大門市場を横断して、地下鉄駅にたどり着き、大谷吉継陣所跡へ向かい中なう。

「疲れた」と「お腹すいた」が私のヘビロテ・フレーズなんですが(自慢にならない)、その両方を叫びたい気分。

でも大谷吉継はキリシタンだから(最終的には棄教しちゃったかもだけど)、体を引きずってでも行きます。文句も泣き言も言うけど、行くことは行くのです。

沿道の植え込みの碑(また独立運動家かもしれないので、ちゃんと読んでないけど)には、ここが誰かの家跡で、昔の「墨寺コル」だったと書かれています。キタコレ━(゚∀゚)━!
大谷吉継の陣所は墨寺洞にあったのです。「コル」は村や町だから、「洞」とほぼ同義。今の地名は墨井洞ですが、寺→井に変わったんですね。オーライ。

《付記》

後でちゃんと碑を読んでみたところ、柳成龍(ユ・ソンニョン。大河ドラマでは「リュ・ソンリョン」となってました)という人の家跡だということで、なんと壬申倭乱の時の宰相でした! 柳成龍は第14代宣祖に仕えていたのですが、壬申倭乱の時、王や貴族、政治家たちは皆漢城を後にして逃げたので、ここは空き家だったと考えられます。

その屋敷を大谷吉継が接収して陣所として用いたという可能性は十分にあります。地名と屋敷があったという点で、こちらに大谷吉継が陣所を置いたのではないかというのが、私の意見です(その場で解説碑読まなかったくせに、えらそーなことゆうとりますが^^;)。



墨寺コル

周辺地図

バプテストの教会


横断歩道の向こうには、尖塔を持つ教会が。ソウル浸礼教会とあるから、バプテストの教会ですね。

日本だとこういう教会建築はカトリックではするけど、プロテスタントでは採用しないことが多いですけど、その点韓国では境目があまりないないなと思ったりして。

キリシタンがいた所に、今教会があるというのはうれしい発見です◎



町角

ソウル浸礼教会

墨井洞


地図で墨井洞の真ん中に当たる場所に来てみました。いわゆる下町っていうんでしょうか、昔から現地人だけが住む、雑多でディープな世界が広がっています。

何かの教えを説いてるような宗教放送っぽいのが流れてくるので、教会かなと思って行ってみたら、「税務事務所」と書いてありました(税金の話してたらしぃ)。

残念。教会でなくて残念というより、私のリスニング能力が…(ToT)ザンネン

まあね、平均寿命も長くなったことだし、人生あと半分くらいは時間があるんだから、これから頑張りましょうよと、開き直りとも諦めとも達観とも言えることを思いながら、墨井洞を後にしました――。



会計事務所

墨井洞

雲峴宮


墨井洞を出た時点では、後は宿に戻るだけと思っていたのですが、やっぱり気になって来てしまいました雲峴宮(ウニョングン)。

疲労度合いからすると、帰った方がいいと理性が告げているんですが、私の中の野性(?)が目を覚ましてしまって(え...w)

雲峴宮は興宣大院君が暮らした王宮なんです。興宣大院君! もうお分かりでしょう、景福宮で追いかけたアイツです。さあ、もう来ちゃったから行きましょー。



興宣大院君

興宣大院君

守直舎

守直舎

老安堂


正門を入って正面にあるのが老安堂(ノアンタン)。興宣大院君が息を引き取った屋敷です。

由緒ある禅寺のような趣ですが、こういうのが金ピカよりもお金がかかってたりします。

使用した木材はすべて白頭山のもので、庭に何気なく敷かれている土は磨砂土(マサト)といって、陽光を反射させて室内を明るくする役目を果たしているのだとか。地味に見えますが贅を尽くしているのです。


雲峴宮はスゴかった


興宣君の私邸だった雲峴宮は、今でこそ、これくらいの規模ですが、往時は取り囲む塀の長さが数里に及び、この辺り一帯がぜーんぶ雲峴宮でした。勇壮さは王宮と肩を並べるほどで、建物もたくさん建てられていました。それくらい興宣大王君が強大な権力を握っていたということです。

当然、王宮から派遣された警吏や宮殿を管理する人々が大勢いた訳で、今の閑散とした雰囲気を見て、当時もこんなんだったのかと思ったら大間違い。高宗が大きくなるまでのただの垂簾政治だったんですけどね。だから高宗が成人してからは、高宗&閔妃との権力闘争が激しくなったのです。



老楽堂


老楽堂(ノラッタン)は、雲峴宮の中で最も大きく中心となる建物。

各種のお祭りや王家の行事が行われた場所で、1866年の高宗&閔妃の婚礼や皇后のお妃教育もこちらで行われたのだとか。

それらを表す人形が置かれています(雲峴宮は入場無料のせいか、人形のクオリティは低い)。



解説板

老楽堂

人形

人形

二老堂


こちらは二老堂。どの建物も似ているので、「あれ、ここさっきも来た?」と、錯覚しそうになります。

二老堂は女性だけが暮らす男子禁制の空間で、二老堂の女主人は実質上、雲峴宮全体の最高責任者だったそう。

建物の基壇が高いのは、王(高宗)の父(つまり興宣大院君)が住んでいる所だからということで、王がいる昌徳宮の2段よりも1段高い3段にしたためだって。はぁっ!? (抑えて抑えて...←自分の中の声)



解説板

二老堂

3段

室内

遺物展示館


遺物展示館には、興宣大院君の関連した遺物が展示されていますが、全てレプリカだそう。

一つくらい・・・と思いますが、ここに詰めてる管理者もいないみたいなので、仕方ないかもしれないですね。

雲峴宮の模型に、王と王妃の礼服に、生活遺物が少し。後は解説パネルが並んでいます。



興宣大院君

雲峴宮の模型

解説パネル

興宣大院君の落款

展示室


展示室で注目すべきは、海外との軋轢の中で、興宣大院君がどう考え、行動したかですね。具体的にはキリスト教徒の迫害と殺害なのですが。

ここではそんな負の歴史を、どんなふうに説明しているんだろうと思って見てみました。

ふむふむ、丙寅洋擾(ピョンイニャンヨ)と辛未洋擾(シンミヤンヨ)のことが書かれていますね。・・・韓国語ばっかりで大体しか分からない。。英語もあるけど、すごく短く略してあって。


二つの洋擾


ざっとしか読めないけど、丙寅洋擾に関しては、何が起こったかは詳しく述べられているものの、カトリック教徒を迫害したことは簡素に「迫害した」と書いてあるだけで、宣教師9人とクリスチャン8千人を殺害したことまでは書かれていないようです。辛未洋擾に関しては、アメリカがこんな強引なことしてきたけど、興宣大院君は撤退させたという功績になってますね。

どちらにせよ、興宣大院君が強いリーダーシップを発揮して、断固とした姿勢を列強に対して崩さなかったから、そこが興宣大院君エライ!みたいな感じです。まあ、そう書くのも理解はできます。興宣大院君の宮殿の資料館なんですから。

それにしても歴史認識って恐ろしいです。こんな暴君を、書き方一つで持ち上げることもあれば、刑務所歴史館や安重根義士記念館では日本を滅茶苦茶こき下ろしているんですから。元となる事実は同じでも、それをどう捉えるかという認識の仕方によって、あまりにも大きな差が生まれます。それが民心に影響を与えることを思うと、本当に恐ろしいなと。今日の総決算の感想ですかね。深く考えさせられます。






解説パネル

興宣大院君

丙寅洋擾

辛未洋擾

斥和碑


ありました、斥和碑(チョクァビ)のレプリカも。

興宣大院君によって各地に建てられた石碑で、「欧米列強が侵犯しているのに、戦わずして和親するのは売国だ」ということが書かれています。

随分と直截な物を建てたものですね。国民に、自分が思った通りのことを伝えないではいられない性分だったのでしょう。

私は斥和碑を迫害史跡だと思っています。文言としては「キリスト教を何とかしてやる」などと書かれていませんが、西洋人を敵視し、キリスト教徒迫害、鎖国・攘夷政策を強化するという目的を明確に持ち、その政策を実行する過程で建てられたものですから。



解説パネル

イス

解説パネル

人形

雪!


外に出ると、海外から来たと思しきグループから、突然大きな歓声が上がりました。

何?・・・ あ、雪!

暖かい国から来たそのグループには、珍しい見ものだったのでしょう。とてもはしゃいでいます。



敷地内の井戸

自動販売機

舞台


冬空


冬空に舞う白い花を手に受けながら、帰路につきました。もう帰りなさいねと言われてる気がして。

確かに今日一日、随分といろんな所を回って、さすがにもう未練はありません。

又来るとしたらもっと勉強してから。語学力や知識を備えて、何より心を磨いてですかね。ありがとう。また来るね♪





倭城の研究


今回のソウル訪問では、城郭談話会が出している「倭城の研究」の第3号(1999年)、「文禄の役(壬辰倭乱)における漢城の日本軍陣所について」を大いに参考にさせていただきました。

この書誌を開いてなかったら、こんな形の旅にならなかったでしょう。顔も知らない研究者さんたちが流した汗のお陰で、苦労もしてない私が現地に足を運べたのですから、先人の探究・研究に感謝したいです。

できることなら、私の探究・(ちょっとした)辛苦も、誰かのお役に立てたらと思います。戦国武将ファン、歴史散策が趣味の人、日韓の未来を考える若者など・・・(少しは参考にしてもらえるかな?)

ちっぽけな私のドタバタした姿が、後で来る世代を励ます力になれたなら、そんな楽しいこともないですね。そのためにも、これからも精進してきたいと思います (⌒∇⌒)マダオワッテナイケドネ






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